MILK9



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 未だ五月だと言うのにやけに暑い日だった。私はクリィム色の七分袖のカーディガンに黒いシフォンのスカートを穿いていた。背中迄伸びた髪が鬱陶しかったけれど、私は其れを結ぶ勇気なんてなかった。髪を結んで世界が能く見える様に為るのが怖かった。
 学校に行かなくちゃ。そう思っているのに私は玄関に座り込んだ儘動くことが出来ない。かちかちと動く時計の秒針が耳につく。膝に顔を埋めて其の音を聞く。かちかちかちかち。責め立てられる。時計の秒針の音なのか其れとも自分の歯がたてている音なのか分からない。此処から動けない。昨日切った傷口からは未だ粘性を帯びた血がじわじわと溢れ続けている。ティッシュで簡単に止血してバンドエイドを貼っただけ。赤く赤く、バンドエイドに血が滲んでいる。数日前に切ったところは何だか黄色くなって気持ち悪い。化膿してるのかな。
 私はヒトリで、外に出ても其れを思い知るだけで、そう思うと必要が有る様には思えなかった。此処から足を踏み出すことも、自分という存在が生きているということも。世の中では周りに沢山の人が居る人間が嘆き悲しまれて命を落としていくのに、何も出来ない、何もしようとしない私が何で生きているんだろう。苦しいって言うだけで、其処から自分の力で抜け出そうなんて欠片も考えていない卑怯で浅ましい私が、何で生きているんだろう。
 実家から離れて、一人暮らしをして、少しは楽になった様な気はする。私のことを奇異の目で見る両親も軽蔑の目で見る弟も此処には居ない。でも私は如何しようもなく独りだった。学校で交わされる他愛の無いお喋りも、バイト先で交わされるお客に対する愚痴も、私の耳を右から左へ通り過ぎる丈でちっとも頭に入らなかった。家を出ても腕を切る量は変わらなかった。私の左腕はいつも真っ赤だった。  もう直ぐ学校で健康診断がある。此の傷を見たら何て言われるかな。矢っ張り病院に行けって?面倒臭いな。私だってこんなことやってるのは不健康だって分かってるよ。
 ああ頭痛い。
 ズキズキと、何かを考えると頭が痛くなる。私は後頭部を押さえて立ち上がる。此の頭痛は薬を呑まないと治らない。洗面台の上の棚に入っている救急箱を取り出す。貧血と頭痛でくらくらしていて、一度救急箱を落としそうになったがなんとか堪えて床に置く。鎮痛剤の青い箱を取り出す。でも其処には使用上の注意の紙しか入っていなかった。
 忘れてた。一昨日頭痛が治まらなくて十錠位、有るだけ呑んでしまったんだ。そう言えば喉が不自然に渇いている。
 仕方ない、買いに行くしかない。
 私は鞄に財布と鍵だけ詰め込んで何とか部屋を出た。ドラッグストア迄は歩いて十五分位。日傘は置いていくことにした。太陽の光は眩しかったけど、どうせもう自分が何の所為で眩暈がしているのか分からなかったから。
 店に入って黄色い籠を持って薬のコーナーに向かう。いつもの鎮痛剤を三個程籠に放り込む。近くに在った酔い止めのコーナーに目が止まる。そう言えば何かの本に酔い止めでも死ねるって書いてあったなぁ。そんなことを考えて私は立ち尽くしている。でも直ぐに現実に引き戻る。馬鹿らしい。私は別に死にたい訳じゃない。生きたいとは、これっぽっちも思っていないけれど。そうだ、どうせ来たんだからついでに日用品も買って行こう。私はくらくらする頭を抱えてティッシュや歯ブラシや洗剤を籠に入れていく。
 こんなもんかなー、そう思って籠をレジに持って行った。レジのオンナノコが「いらっしゃいませ」と張り付いた笑顔を向けてくる。瞬間隣のレジで怒鳴り声がした。目をやると緑色のエプロンを付けたオトコノコがワイシャツを着た一寸太めの男の人に何かを言っていた。太めの人はこっちに背中を向けていたから分からないけれど、オトコノコは眉間に皺を寄せて拳を固く握り締めていて完全にキレていた。
 オトコノコのしているエプロンには真ん中に店の名前が書いてある。テーブルの上には少しくしゃけた紙袋が置いてある。クレームか何かかな。私の居るレジの高校生位に見えるオンナノコはおろおろするばかりで、私は暫くぼうっと様子を眺めていた。オトコノコが強い口調で何か言う。男の人が更に強い口調で言い返す。又オトコノコが言い返す。こんなに近くで喋っているのに私には二人の口から発せられている言葉が少しも理解出来ない。
 お客様にあんな態度とって大丈夫なのかな。そう思ったが結局は私に関係ない。其れよりも此の頭痛を治すことが先決だ。
 「取り敢えず、御会計してください。」
 そうレジのオンナノコに言うと、彼女は後ろを気にし乍びくびくした手付きでレジを打った。何度か打ち間違いをして、其れでも何とか袋に商品を詰めた。私は袋を手に取ろうとした。さっさと店を出よう。薬を呑まなきゃ。頭痛が少し酷くなっている気がする。
 「だからアンタ何様の積もりだよっ。」
 今迄でいちばん大きな声が聞こえた。オトコノコはレジの前に在ったドリンク剤を掴むと男の人に向かって投げ付けた。でも男の人は咄嗟に身をかわし、ドリンク剤の瓶は私の額に当たった。
 う、わー…洒落にならない。私は痛みで思わず蹲る。視界の端をドリンク剤の瓶が転がっていく。幸い血は出てないみたい。でも唯でさえ酷い頭痛なのに此れは正直気を失いそうだった。
 男の人は流石にこんなトラブルには巻き込まれたくないみたいでそそくさと店を出て行った。レジのオンナノコが何処かに走って行く。社員さんでも呼びに行ったんだろう。私もこんなことに関わりたくないんだけどな。社員さんが駆け付けてくる前に帰っちゃおうかな。そうは思うけどなかなか立ち上がれない。ドリンク剤が私の足元でころころ動いて居るのが鬱陶しかった。其れを止めようと手を伸ばす。其れが精一杯だった。
 其の腕を突然掴まれた。顔を上げるとドリンク剤を投げ付けたオトコノコだった。オトコノコは私を見ていない。彼の視線は私の腕に注がれていた。オトコノコの冷たい手に掴まれた私の左腕に。
 カーディガンの袖が少し捲くれ上がって傷が露わになっている。赤くなったバンドエイドや黄色くなった傷跡が蛍光灯の光に照らされている。夜の闇の中で私に安らぎを与えてくれた傷跡は、白い光の中で見ると汚くて見っとも無くて劣悪で醜悪だった。
 オトコノコがゆっくりと顔を上げる。私は頭の中が真っ白で動くことが出来なかった。オトコノコはじっと私の目を見る。少し長い前髪の間から覗く彼の目は灰色っぽいイロをしていて猫みたいだった。何もないところをじっと見つめている猫みたいだった。
 唐突にオトコノコは立ち上がって歩きだした。私の腕を掴んだ儘。私は彼に引っ張られて店を出る。私は混乱して何が何だか分からなくて、ただ彼のTシャツから伸びた細い腕の青く浮き出た血管を眺めていた。血が流れている。こんなに冷たい手をしてるのに、其処には血が流れている。当たり前だ。当たり前のことなのに私には信じられない。
 五分位歩いたところでオトコノコは立ち止まる。振り返る。くせっ毛が揺れる。やけに色が薄く見えるのは屹度太陽光の所為だけじゃないだろう。
 「おねーさんの家、何処?」
 オトコノコが訊いた。何故だか私は素直に答えてしまった。オトコノコは踵を返して今迄とは逆方向に歩き出す。私の住むアパートの方向へ歩き出す。
 会話は其れきりで、私の家迄無言で歩いた。オトコノコは私の手を離そうとしなかった。私は何処に目を向けて良いのか分からなくて、ずっと俯いていた。濃い灰色のコンクリィトが目に痛かった。私の指先はすっかり冷え切っていた。
 アパートに着くと今度は部屋の番号を訊かれた。私はオトコノコの目を見ずに答える。オトコノコは階段を上る。矢っ張り私の手を掴んだ儘。階段の手摺りに触ったオトコノコの右手が赤茶色に汚れていく。苦情が出ているのに何時迄経っても塗り替えられない階段の手摺り。其れでも必要とされている。どんなに汚くなっても。
 オトコノコは当たり前の様に私の鞄から鍵を探し出し、扉を開けた。其処でやっと、手が離れた。掴まれていたところがほんのり温かい。不思議。あんなに冷たい手をしていたのに。私はそっと自分の左腕を撫でてみる。
 「何してるのおねーさん。早く上がって。」
 何それ。此れじゃあ立場が逆じゃない。一応此処は私の家なんだけど。オトコノコは部屋の真ん中に屈んで、床に置いた儘にしてあった救急箱を物色している。
 私一体何してるんだろう。今更オトコノコの行動に腹が立ってきた。ドリンク剤をぶつけた事に対する謝罪も無い。其れより何よりあの場面で私を連れて外に出て仕舞うなんて常識的に外れてる。普通だったら謝って、社員さんを呼んで、其の場で治療するとか病院に連れて行くとかするものじゃない?
 私は口を開こうとした。オトコノコに抗議して、早く此の部屋から出て行って貰わなくちゃ。お願いだから、私の結界の中に踏み込まないで。
 しかし私が声を発する前に、オトコノコがもう一度私の左腕を掴んだ。
 ひやりとした感触。
 「痛っ…」
 オトコノコは私の腕にガーゼを押し当てた。如何やら消毒液が染み込ませてあるみたい。鋭い痛みが傷口に走る。
 私は手を振り払おうとした。でもオトコノコの力は意外に強くて、消毒の痛みから逃げる事は叶わなかった。こんな細い腕の何処にそんな力が在るんだろう。
 「放して。」
 私の言葉を無視し、オトコノコはてきぱきと私の腕に包帯を巻いて仕舞った。何だか仰々しい。私ハ腕ヲ切リマシタ、心ガ病ンデイルンデス、そう周りに見せ付けているみたいで軽く吐き気がした。
 「こんな事してなんて頼んでないよ。」
 「御免なさい。」
 オトコノコは私の言葉を遮る様に頭を下げた。何に謝っているんだろう。何をしたことに対して?ドリンク剤をぶつけたこと?店から連れ出したこと?部屋に上がりこんだこと?傷の手当てをしたこと?
 私はオトコノコの姿をまじまじと見詰める。オトコノコは中々頭を上げようとしない。私はオトコノコを突き飛ばしたい衝動に駆られた。脳が、オトコノコが倒れて頭から血を流す映像を織り上げる。オトコノコの顔が赤く染まっている。赤い雫がフローリングに円を描く。
 勿論そんな事出来る訳が無かった。私は干乾びた喉から声を絞り出す。
 「出て行って。」
 其れだけ言うのが精一杯だった。オトコノコは未だ頭を下げている。

 オトコノコが再び姿を現したのは三日後だった。
 日曜日の夕方、バイトから帰ってくるとアパートの扉に背中を預け、掌に付いた錆を人差指で掃っている彼が居た。私は動けなくなって、其の場に立ち尽くしていた。右手に下げたスーパーの買い物袋がみしみしと食い込んでくる。
 オトコノコが私の気配を感じたのか顔を上げる。私の姿を捉えると笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。
 「今日は、おねーさん。はい此れ、此の前のお詫び。」
 オトコノコは私の前に小さな紙袋を差し出した。私が受け取らずにいるとオトコノコは私の空いている方の手を取り、無理矢理紙袋の紐を握らせた。オトコノコの手は矢っ張り冷たい。
 「ぶつけたトコロ大丈夫?ああ、少し青くなってるね。」
 オトコノコが私の額に手を触れる。私は思わず身を引いた。
 オトコノコはやり場の無い手に一瞬だけ目をやると、何事も無かった様に其の手で私の手からスーパーの袋を奪い取った。
 「部屋迄持つ。重いね此れ。」
 そう言って又笑った。烏龍茶の二リットルペットボトルとサラダ油と牛乳パックが入ってるから。そう思ったけど口を開くことは出来なかった。
 私はオトコノコの笑顔を見ていられなくて、渡された紙袋を覗き込んでみる。小さなクリィム色の箱が一つ。店の名前らしきモノが丸みを帯びた筆記体で書かれている。
 「駅前のケェキ屋さん。モンブランが凄い有名なんだけど他のケェキも凄い美味しいの。て言うかモンブランは甘過ぎて僕にはあんまり美味しいと思えないんだよね。知ってる?」
 知らない。私は日々息をしているだけで欠片も周りを知ろうなんてしていないから。
 オトコノコはスーパーの袋をもう片方の手に持ち替えて、身動きしない私を見ていた。
 私はずっとケェキの箱を見詰めていた。誰かからケェキを貰うなんて何年振りだろう。小学生のとき、誕生日が来ると毎年母親が作ってくれた。中学生になると市販のケェキになった。高校生のときはオメデトウすら言って貰えなくなった。どうしてあんな風に育って仕舞ったんだろう。昔はもっと可愛げがあったのに。真夜中のリビングで、両親がそう話しているのすら聞いたことがある。何も私の誕生日にそんな話しなくたって良いのに。私は、死にたくなんて、ないんだよ。其の夜は布団を頭迄被って震えていた。
 悪循環。私は生きていく為に腕に傷を付けるのに、傷が増える度に周囲の目は冷たくなる。息苦しくなって又カッターナイフを手にして仕舞う。自殺未遂。そんな風に言われる。違う。私は生きていたいだけ。ちゃんと呼吸をしたいだけ。其れなのに。
 だったら一人でいた方が良い。人から拒絶されて傷付くよりも。痛かった。一人の世界は痛かった。でも此の腕を見た人は絶対に顔を顰めるから、其れに私は耐えられない。人から拒絶される前に、自分で切り離せばダメージは少なくて済む。そんな雰囲気を察してか、私の周りには極数人の人間しか居ない。
 ぽたり。
 箱の上に水滴が落ちる。水を吸い込まないケェキの箱の上で水滴は小さく揺れている。ふるふると小刻みに揺れて、太陽の光を反射している。
 悔しかった。何故か無性に悔しかった。ケェキを貰えなくなったのは自分の所為。勝手に自分で居場所を縮めていった所為。分かってる。分かっているからこそ、悔しい。辛い、そう思っている自分が悔しくて堪らない。涙が止まらない。
 オトコノコが自分のカーディガンの袖で私の涙を拭う。
 「おねーさん。鍵、開けてくれないと手ぇ痛いよ。」
 今迄スーパーの袋を提げていた手を私に見せる。私は漸く顔を上げた。オトコノコの手は指の第一関節辺りが真赤に染まっていた。
 「僕はアオ。おねーさんは?」
 オトコノコは本名だか何だか良く分からない名前を名乗って、又笑った。猫みたいだと思った。
 私なんかに構ってくれなくて良い。私なんかに歩み寄ってくれなくて良い。私は一人で良い。独りで良いのに。
 なのに如何して。
 私は声の無い叫びを上げて蹲って仕舞い、名乗ることなんて出来なかった。

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