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スーパーから帰り、私は重たい荷物を床に置いた。アオは出掛けているようだった。パソコンの横のメモに、「出掛けてくる」と走り書きがしてある。
一寸買い過ぎて仕舞ったかも。最近バイト三昧で、買い物に行っている時間も無かったから。
本当は其処までシフトが入っていた訳じゃなかったのだけど、無理矢理捻じ込んで貰った。家に居たくなかった。家に居なくていい正当な理由が欲しかった。
何だかあれからアオの顔をまともに見られない。私の頭を擡げる疑念が、アオの顔を見る度に、毛穴と言う毛穴から膿の様にじくじくと漏れ出してくるようで。
私は買ってきたものを冷蔵庫に仕舞う為に扉を開けた。
牛乳を仕舞おうとして冷蔵庫の扉部分の棚に目をやる。其処には二本並んだ牛乳パック。不安に思って取り出してみると、予想通り共に賞味期限が切れていた。
他の冷蔵品を全て仕舞い終えてから、期限切れの牛乳パックの口を開けシンクに流した。真っ白に染まったシンクに、私は何となく左手を浸した。冷たくて気持ちがいい。帰ってきたばかりで火照っている体から、熱が吸い取られていく。間も無く牛乳は全て排水口に流れ落ち、私は白く染まった左手を見詰めた。
賞味期限切れの牛乳。
ぼうっと自分でも何を考えているのか理解しきれない儘、手も洗わずに冷蔵庫を背にして蹲る。床についた左手から、フローリングの目に沿ってじわじわと牛乳が広がっていく。
賞味期限切れの牛乳。
牛乳が好きなアオ。
アオにそっくりのオトコノコ。
ばらばらのイメージが重なっては又散っていく。そんな。真逆。でも。矢っ張り。接続詞や副詞ばかりが浮かんできてちっとも文章に為っていかない。
答えが出る直前で、其れを拒む様に、其れを恐れる様に、頭の中が鉛筆で真っ黒に塗り潰される。
冷蔵庫の熱が背中に伝わってくる。暖かい。冷えた左手も、次第に熱を持ってくる。
私はいろんな思考が渦巻いて重たい頭を押さえ乍立ち上がる。手を洗い、床に出来た小さな牛乳の水溜りを雑巾で拭き取った。
雑巾を絞り終えたところでタイミングよく玄関のチャイムが鳴った。
「はい。」
私は扉越しに返事をした。此の古いアパートにはインターフォンすら付いていない。
「あ、あの突然済みません。私、新見と言いますが…その…」
扉の向こうの主は何を言っていいのか躊躇っているようで、先が続かなかった。其れにしても何処かで聞いたことが有る声だ。透き通った滑らかな声。何処で聞いたんだったろう。
私は恐る恐る扉を開けた。普段なら相手が分からない限り絶対にそんなことはしないのに、先週から混乱し気味の思考は未だ正常に働いていない様だった。
扉の先には一人の女の子が立っていた。ゆったりとした紫色のカーディガンに細身のジーンズ、合皮のブーツ。彼女はきっちりと背筋を伸ばし、けれど少し緊張したような固い表情で其処に立っていた。
「新見さん…?」
私は驚いて彼女の顔を見詰めた。caramel miLkでバイトをしている新見さんだった。
何故彼女が私の家を知っているのだろう。
しかし訪ねてきた筈の彼女の方も何故か目を見開いて固まっていた。
「一砂=cさん?」
何故彼女が私の名前を知っているのだろう。
私は彼女には名字しか名乗っていなかった筈だ。
「そんな…」
新見さんは俯いて歯を食いしばった。
私達は二人揃って戸惑い乍、近くのファミレスに入った。ドリンクバーだけ注文する。もう直ぐお昼どきだったけれど、何かを食べる気分には到底なれなかった。
暫く私達は何も言わなかった。隣に座った家族連れの声が矢鱈と大きく聞こえた。
「おかあさん、パフェ食べていい?」
幸せそうに弾んだ声。
私は梢ちゃんの食べていたラズベリーパフェを思い出す。赤い赤い、傷口から流れ出たばかりの血の様なイロ。チョコレートパフェを注文した女の子は口の周りをべたべたにして満面の笑みを浮かべている。
私は味の薄いオレンジジュースを啜った。
「美術館、行きました?」
何とか話題を探り当てた、といった感じで新見さんが早口に言った。別のところへ思考が飛んでいた私は慌てて目の前の出来事にチューニングを合わせる。
「うん、良かったよ。凄い人だったけど。」
「そうですか。ええと…モネ…でしたよね。って有名なんですよね?私絵とかよくわかんなくて。」
「美術の教科書とかにも載ってるんじゃないかな。」
「美術の教科書…まともに見たこと無いような…」
新見さんは恥ずかしそうに苦笑いをした。私も呆れた様に笑った。
其れから私達は堰を切った様に喋り出した。
「へえ、バスケ部だったんだ。」
「はい、昔から球技得意だったんですよ。」
「私運動全然駄目だったから羨ましいな。」
取り留めの無い話ばかりだった。
「知ってます?あの沿線って出るらしいですよ。」
「え?出るって何が?幽霊?」
「何言ってるんですか、痴漢ですよー。私の友達も被害に遭った子いるんです。」
コンビニに売っていた新製品のお菓子。テレビでやっていた近くの心霊スポット。バイト中に読んだファッション雑誌に載っていた今年流行するコートやジャケット。夏に行った花火大会。ネットで見つけたカフェ巡りのブログ。
途切れること無く滑らかに、口が動く。私の底に澱となって溜まっていたものが吐き出されていく。
私にも未だこんな会話が出来たんだ。如何でもいいような会話。けれど私には何よりも難しかった会話。
そうだ、梢ちゃんにメールを返そう。いつが良い?って送ってみよう。屹度梢ちゃんは返事を呉れる。遅いよぉ、って怒り乍、又絵文字が溢れたメールを送ってきて呉れる。例えもし返ってこなくたって其れは其れで構わないじゃないか。メールが返ってこない位で、私に傷なんて付く筈が無い。
「あの…私入谷さんに言わなくちゃいけない事が…」
「…何?」
「……御免なさい、矢っ張り後にします。あ、それより此処のハニートースト食べたことありますか?」
一体新見さんが何をしにきたのか。
何故私の名前を知っていたのか。
ところどころで新見さんは口にしようとしていたけれど、踏ん切りがつかない様だった。私も敢えて突っ込むようなことはしなかった。
私は何杯も何杯もオレンジジュースばかり飲んだ。いい加減水分でお腹がはちきれそうだったけれど何かを口にしていないと会話が途切れて仕舞うような気がした。私はもう少し喋って居たかった。
三時間程お喋りをして、結局本題には何一つ触れない儘、私達は別れた。けれど、私には分かっていた気がする。
冷蔵庫の中の賞味期限の切れた牛乳。
牛乳ばかり飲んでいたアオ。
猫のように笑うアオ。
アオに。
会わなくちゃ。
私の頭の中にはくっきりとアオの笑顔が浮かんでいる。
其の日、アオ≠ヘ帰ってこなかった。
私はアオ≠フ携帯に電話をし、留守電にメッセージを吹き込んだ。
たった一言だけ。私が今迄訊けないでいたことをたった一言だけ、吹き込んだ。
「貴方は誰ですか?」
*
マンションにやって来たキィは何も言わずに僕の携帯と一砂の部屋の鍵を差し出した。左頬が少し腫れていた。一瞬一砂に引っ叩かれたのかと思った。
「バレたの?」
言いながら気付く。一砂が誰かを叩くなんて、そんな事する筈が無い。彼女は全部、辛いことは全部自分に向ける。自分が悪かろうと相手が悪かろうと関係無く。
キィは答えずに部屋に上がり、ベッドに突っ伏した。僕もキィの後について部屋に入る。
部屋の隅に腰を下ろし、キィの反応を待った。キィは中々動こうとはしなかった。
あれから何度も新見朝子が制服姿でここを訪ねてきた。話の内容は毎回同じ、「一砂さんに全部話して謝りなさい。」僕が「そのうちね」と、曖昧な反応をすると、新見朝子はきっと僕を睨んで「また来るから」と言って去っていった。
「朝子が全部話しに行くって。」
キィがベッドにうつ伏せになった儘、漸く口を開いた。
全てを話す。
全てを。
新見朝子はとうとう痺れを切らしたらしい。あんなに「自分の口でちゃんと説明してきなさい」と言っていたのに。
じゃあ一砂は今頃、全てを知っているのだろうか。一体どんな顔で新見朝子の話を聞いているのだろう。泣きながら?それとも怒りをこらえながら?
「朝子に怒られた。いい加減にしろ、自分の復讐に他人を使うな、正々堂々と真っ向から勝負しろ、って。凄い剣幕だったよ。」
「其れも新見さんが?」
僕は左頬を指差して言った。キィは片目だけ僕の方に向け、自嘲気味に笑った。
「商店街のど真ん中で殴られた。気に入らないことが有るなら当人同士、男らしく殴り合いでもしろってさ。」
「殴り合いか…そんなのしたらどっちが勝つんだろうね。」
「俺は嫌だよ。面倒臭い。」
「僕だって嫌だよ。でもじゃあゲーム≠ヘ無効ってことになるのかな。」
他人にばらされたんじゃもう勝ちも負けも無いだろう。もっとも僕はもうあの部屋に戻ることは出来ないし、どっちでも変わりは無いけれど。
キィは僕に向けた片目を物憂げに伏せた。
「…いや、お前の勝ちだよ。多分気付かれた、俺は別人だって。」
「まさか。」
僕は笑って言った。キィは反応しなかった。
冗談だと、言って欲しかった。
「約束だ…何でも言うこと聞くよ。何をすればいい?」
「…いいよ別に。聞いて欲しい望みなんてひとつも無い。」
真剣に命令するにはキィの背中は余りに絶望に塗れていたし、冗談混じりの命令をするには僕はもうキィのことを知らなさ過ぎた。大体勝ったと言われたって、僕は何もしていない。何ひとつ。キィに対する償いすらしていない。
「それよりキィはいいの?冗談じゃなく、一発くらい僕を殴れば?」
キィはまた片目だけで僕を見ると、今度はすぐに視線を外した。
「もういいよ、馬鹿らしい。お前を不幸にしたって何も面白くない。」
キィは枕に顔を押し付けて言った。
キィの気持ちが分からなくなってしまった僕でも、彼が僕にここに居て欲しくないだろうことは分かった。
僕は殺風景なキィの部屋を眺める。モノトーンでまとめられた無機質な部屋。
僕は鍵からウサギを外して、何も入っていない写真立ての横に置いた。淡いピンク色のウサギが、笑顔を浮かべていた。
僕は行く当てもなく公園のブランコに座って、自販機で買った紙パックの牛乳を飲んでいた。誰も居ない公園は、昼間とは打って変わってもう世界に存在する人間は誰も居ないかのような気分にさせた。誰も居ないすべり台。誰も居ないジャングルジム。誰も居ないシーソー。誰も居ない砂場。どうして昼間賑わっているところに誰も居ないだけでこんなに寂しい気分になるんだろう。
僕はブランコから立ち上がり、砂場に寝そべった。冷たい砂の感触が背中全体に広がる。空は厚い雲で覆われていて、星どころか月の光の切れ端さえも見えなかった。
耳慣れたメロディーが流れ出し、僕は携帯をポケットから取り出した。一砂からの着信だった。
僕は出る事が出来ずに、携帯に表示された一砂の名前を見詰めていた。光の無い夜の公園に、着信を告げる携帯のライトが眩しかった。
やがて電話は切れ、辺りはまた真っ暗になった。しかし直ぐに留守番電話の着信を告げるアラームが鳴った。
起き上がると砂が僕の形にへこんでいた。髪の毛は砂だらけで、頭を少し振っただけで大量の砂がばらばらと零れ落ちた。砂が鼻や口に入り込み、僕はむせ返った。
咳きこみながら携帯電話を耳に当て、メッセージを聞いた。耳元で聞こえる一砂の声は、何だかもう何年も聞いていなかったもののようで、何とも言えない懐かしさが僕を包んだ。
「貴方は誰ですか?」
入っていたメッセージはそれだけだった。
僕はもう一度メッセージを再生させた。
「貴方は誰ですか?」
もう一度。
「貴方は誰ですか?」
再生。
「貴方は誰ですか?」
再生。
「貴方は誰ですか?」
再生。
「貴方は誰ですか?」
再生。
「貴方は誰ですか?」
再生。
再生。
再生。
涙が出てきた。
何十回と同じことを繰り返し、漸く僕は携帯電話に向かって口を開いた。
「西野、葵人(あおと)と言います。」
口の中がざらざらした。
「このメッセージを消去する場合は数字の9を…」
携帯からは無機質な声が流れてくるだけだった。