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携帯の番号とメールアドレスを交換して梢ちゃんと別れた。地下鉄のホームに着いた時、早速メールが入った。
〈今日ゎひさしぶりに会えてよかったよー♪
何だか変わってなくて安心しました。
今度ゆっくり夜ごはんでも食べに行こぉ。
また時々メールするねい。〉
私は携帯を見詰めて立ち竦んだ。絵文字が沢山使われた女の子らしいメール。こんな平面からでも、梢ちゃんの発する甘いニオイが感じ取れた。何の躊躇いも無くこんなメールを送れる梢ちゃんが羨ましかった。疎ましかった。
こういうメールって如何返せば良いんだろう。ふたりでご飯を食べに行って、一体何を話せば良いというんだろう。中学のときの様に共通の話題なんて、もう何処にも存在しないのに。昨日見たテレビや鬱陶しい教師や好きな人についての話なんてもう出来っこないのに。
それとも此のメールは単なる社交辞令なのだろうか。本気に捉えて「いつにする?」なんて返したら、嫌な顔をされるのかも知れない。
「間も無く二番ホームに電車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください。」
ホームにアナウンスが反響する。トンネルの向こうから吹き込んでくる風が段段と強さを増してくる。
私は靡く髪を片手で押さえ、結局返信出来ない儘の携帯をバッグの中に仕舞った。
帰るとアオが窓辺で呆けていた。最初は日向ぼっこでもしているのかと思ったけれど、がっくりと項垂れた肩からは話しかけ辛い空気を漂わせている。瞳は伏せられ、じっとフローリングを見詰めている。膝を緩く立て、だらんと垂らした腕には力が一切感じられない。
アオの足元には鍵が投げ出されていた。私が買ったウサギのマスッコットの付いた此の部屋の鍵。ウサギにはもう一本何処のものだか分からない鍵がついている。アオが此の部屋に来たときに持ってきたものの、もうひとつ。
私は如何話し掛けようか悩んだ挙句、私はバッグの底で眠っていた包みを漸く取り出し、ラッピングを解いた。真っ青なコップ。ラッピングはもうぐしゃぐしゃだったけれど、コップは買ったときの儘、深い青を湛えていた。其のコップに牛乳を注ぐ。牛乳にコップの色が写り緑掛かって見えた。アオの目の前にコップ差し出す。コップが夕日を浴びて更に深いイロになる。
「飲む?」
アオはコップを受け取ろうとはせず、ゆっくりと私を見上げ、又俯いた。
「一砂は自分を騙した人間を許せる?」
私は突然話し出したアオに戸惑い乍も牛乳の入ったコップを床に置き、アオの隣に座り込んだ。
「そんなの、分からないよ。」
そうとしか答えようが無かった。実際そんなの想像もつかなかったし、アオがどんな答えを望んでいるのかも分からなかった。
何かあったんだろうか。約束が有ると言っていた。其の相手と。
「…僕には双子の兄弟が居るんだ。」
アオは躊躇いがちにに喋り出した。私は思わず目を瞠る。
双子の兄弟。
双子の兄弟?
本当の話?例え話じゃなく?だとしたら。
咄嗟にあのカフェでの出来事を思い出す。アオにそっくりな声と顔をしたオトコノコ――
「僕はキィって呼んでた。勉強も運動もイマイチで、要領も悪かったしいつも損許りしていた気がする。」
私は相槌も頷きもしなかった。独り言のように呟くアオの姿はいつもと違って薄弱で、直視してはいけないような気がした。其れでもアオは喋り続ける。
「僕等の父さんはとある会社の社長ってやつで凄く厳しい人だった。何時も眉間に皺を寄せていて忙しそうにしてた。休日だって一緒に遊んで貰ったことなんてない。偶の休みは僕等に勉強することを強いた。僕等のどちらかに後を継がせようとしていたみたいで、事ある毎に僕等を競争させて比較した。テストの点数、徒競争、写生大会、作文、比べられない事なんて一つもなかった。」
オトウサン。初めて聞く。アオはオトウサンの話は絶対にしなかった。牛乳の飲み方を叱ったこと。其れ以外は全く聞いたことが無い。
「其れに対して母さんは優しくていつだって笑っていて、僕等は自然と母さんの方に懐いていった。」
オカアサン。アオを猫みたいって撫でたオカアサン。
「僕等が小学生の頃、二人は離婚した。僕等はそれぞれ一人ずつ引き取られることになって、話し合いの末に母さんがキィを、父さんが僕を引き取ることになった。」
アオは淡淡と言葉を吐き出す。其の様子は何処か機械的で、アオの意思が本当に伴っているのか私には分からなかった。吐き出すことで楽になれるのなら聞いてあげるべきだ。けれど何故か、私は続きを聞いちゃいけない様な気がしてならなかった。
何かが、何かが違う。
正体の分からない違和感が私の胸を襲う。心臓の裏側がざわざわする。
「僕はキィと二人きりになる機会を見計らって、一週間だけアオとキィを交換しようと持ちかけた。僕等はよく此のゲーム≠してた。僕とキィは本当にそっくりで、今迄見破れたのは母さんの実家のばあちゃんだけだった。父さんや母さんですら僕等が服も靴も何もかも取り替えて仕舞えばどっちがどっちなのか判別がつかなかった。ばあちゃんは僕等が小二のときに死んで仕舞って、もう見破れる人は何処にも居なかった。」
ゲーム…ゲームと言うと何だか軽く聞こえる。だけど…
「大好きな母さんと是っきり会えないなんて寂しいから、だから最後に少しだけ母さんと過ごさせてくれ、そう言って。是から厳しい父さんと暮らしていかなきゃいけない僕に同情して、キィも其れを了解した。快く。僕等は二人の見ていないところで服を取り替えた。でも僕は知っていたんだ。母さんが父さんに連絡先を教えていない事を。」
だけど其れは、凄く寂しいことなんじゃないだろうか。誰にも自分だと分かって貰えないなんて。誰にも自分を、気付いて貰えないなんて。
「一週間経っても二週間経っても僕はキィに連絡を取らなかった。父さんと暮らすなんてゴメンだったから。母さんと居たかったから。僕はキィを騙して裏切った。」
アオの口調は段段と早くなる。
「キィは待っていたのに。僕を信じて、待っていたのに。そうだ此れは裏切りだ。僕はキィを見捨てたんだっ。」
最後の方はもう叫んでいるようだった。どんっ、とアオは強く握り締めた拳を床に叩き付け、其の拍子にコップが倒れて白い液体が床に流れ出た。
「其れなのに僕は笑ってるんだ。何事も無かったように、笑ってるんだ。」
アオの笑顔。目を細めて、眩しそうに笑うアオ。喉を撫でられて恍惚の表情を浮かべている猫のような、アオの笑顔。
瞬きが出来ない。一瞬でも目を閉じたら、アオの顔を忘れて仕舞いそう。アオは、目の前に居るというのに。
西に傾いた日差しはやけに鋭さを持っていて頭の中をちくちくと刺してくる。私は軽く眩暈を覚える。
「ねえ一砂、こんな僕を許せる?人を騙して、自分だけ幸せにのうのうと暮らしてきた人間を許せる?」
アオが私の方を掴む。ちらりと見えた右手の平からは火傷の痕が消えていた。酷い火傷だったのに、もう治ったんだろうか。私に向けられたアオの目は真赤に充血していて、でもアオは涙を溢すことはなかった。
「…分からないよ…」
私は人から裏切られる前に全て切り捨てた人間だから。
裏切る人間の痛みも、裏切られる人間の痛みも私には理解出来はしない。気持ちや痛みなんて、其れを味わった事のある人間でなければ簡単に語って良いことじゃない。
アオはゆっくりと視線を外し、自分の膝に顔を埋めた。
「でも……」
裏切ったアオの気持ちも裏切られたキィの気持ちも、分からない。けれど。
「本当にアナタは幸せだったの?」
幸せだったなら如何してそんなに惨憺としているの?
幸せだったなら如何してそんなに悲愴さが漂っているの?
幸せだったなら如何してそんなに寂寥感に塗れているの?
アオは顔を上げない。
何かが決定的に間違っている気がした。でも何が?分からない。小さな小さな骨が喉につっかえて取れない。私は致命的な間違いを犯している。
近くの道路で始まった工事の音が静かな部屋の中に耳を劈かんばかりに響く。ドリルの音は私の心臓までをも抉り取っていく。
夕暮れに染まった牛乳の琥珀色が目に痛い。
*
「それで?キミはこれでいい訳?」
新見朝子は全てを僕の口から引き出すまで納得しなかった。
全て、キィを騙した事、一砂を騙している事、洗いざらい喋らされた。
話し終えると新見朝子はさっきとは比べ物にならない位の深い深い溜息を吐いて、暫くの間考え込む様に額に手を押し当てていた。やがて決心した様に僕の方に向き直ると険しい目付きで僕を睨んだ。怒っている。どう見たって怒っている。
それはそうか。誰から見たって、自分から見たって僕は最低だ。自分が楽になる為に躊躇いもなく人を踏み付けて生きてきた。キィを陥れて一砂を体よく利用して、それでも良心は痛まない。勿論キィも一砂も僕にとって軽い存在じゃない。他の何にも変え難いと思う位には大切な存在だ。
でも、切り捨てるのは余りにも簡単で。
「一砂さんて人、騙されてるなんて知ったら傷付くんじゃないの。」
きっとそうだろう。一砂は脆い。他人に傷を付けられることを酷く怖がっている。傍から見れば、そんな状態がもう十分傷だらけだと言うのに。
「僕にはもう関係ないよ。」
新見朝子は信じられない、と言いたげに目を瞬かせた。
「キミって桐人と同じ顔なのに中身は全然違うんだね。」
心底軽蔑しきった口調だった。口元はひくひくと引きつり、きっと僕に浴びせかけたい罵詈雑言を我慢でもしているんだろう。
「当たり前だよ。双子だって、同じ顔をしていたって別の人間なんだ。キィと同じものを僕に求められたって困る。」
――の方が頭が良い。
――の方が喋りやすい。
――の方が優しい。
――の方が絵が上手い。
――の方が足が速い。
――の方が
――の方が
――の方が
――もううんざりだ。一緒に居る限り僕等は比較され続けてきた。父親にも教師にも友達にも。
新見朝子の顔がかぁと赤くなる。僕は彼女の方を見ていられずに、テーブルの上に置かれた一輪差しに目をやった。花瓶と言うよりもコップに近い。と言うよりもコップを花瓶として使っているのかも知れない。どっちでも大して違いはないだろうけど。透明なコップの中に浮かぶようにクリーム色の花が咲いている。名前はよく分からない。
走り去ったキィの事を思う。アイツは傷付いたみたいだった。アイツの中で父親はどんな位置を占めていたんだろう。四人で暮らしているとき、僕達にとって父親は絶対の存在だった。お小遣いの金額も食べていいお菓子もテストの点数も付き合う友達も喋り方も歩き方も息の仕方さえ父親によって決められている気がした。
両親が離婚して、僕は自分の生活から父親を排除することに成功した。
じゃあキィは?
ずっと二人で暮らしてきたキィにとって、父親は一体どういう存在になっていたんだろう。
「でも桐人も桐人だよ。いくらキミに恨みがあるからって、やって良いことと悪いことがあるよ。」
心の底から搾り出すように新見朝子は言った。悔しそうだった。キィの苦しみに気付けなかったことが、だろうか。何にしたってもう今更だ。
新見朝子はまだ何か言いたげだったが、客が入って来た為身を翻して走り去った。
僕は水を一気に飲み干した。それだけじゃ足りなくて、キィに出されていたコップにも手を付けた。無性に喉が渇いている。緊張、していたのだろうか。何に?父親と会うことに?いや、有り得ない。別にあの人の事なんてもう何とも思っていない。恨んでもいないしまして恋しくもない。じゃあ一体何に?
「良いのか?」
いつの間にか髭面のマスターが僕の傍らに立っていた。
僕は口を開こうとしたが声が擦れてしまい、誤魔化す為にもう一度コップを傾けた。しかしそこには一滴の水も残っていなかった。
気まずい空気を感じながら、僕はコップを置いた。マスターは僕の向かい、父親が座った席に腰を下ろす。
「自分に嘘を吐くと、後悔するぞ。」
マスターは片肘をついて僕を見詰めている。僕はコップを掴んだ儘の自分の手を見詰める。火傷の痕がコップの向こうに揺らいで見える。
嘘。
嘘。嘘。嘘。
キィに嘘を吐いて。
一砂に嘘を吐いて。
僕の人生はずっと嘘で塗り固められてきた。
今更後悔したって何になる?
「別に後悔なんかしません。」
夏の日差しの真下にいるときのように乾いた喉からは擦れた声しか出なかった。
「そうか。」
マスターは短く言った。
「一砂がどうなろうが知ったことじゃない。」
言葉を発する度に喉がひりひりと痛んだ。
「そうか。」
「都合が良かったから居座っただけだ。」
「そうか。」
「過去なんて捨てられる。」
「そうか。」
「どうでもいいんだ、何もかも。」
喉から水分がどんどん奪われていき、僕は何も言えなくなった。顔を上げることが出来なくて、テーブルの上のクリーム色の花ばかり凝視していた。
「本当に?」
マスターの問いかけに、僕はもう何も答えられなかった。
僕は一砂の左腕を思った。体中の筋肉が収縮し、物凄く恥ずかしいような気分になった。
砂になって、消えてしまえたらいいのに。
そう思った。