MILK6



   *

 ヴヴヴン。
 小さな、呻る様な電子音で目が覚めた。
 部屋の中が薄っすらと明るい。柔い光が部屋の中を照らしている。寝起きの私には、そんな光でも十分に眩しくて目を擦る。少し丈涙が滲む。夜明けかと思い窓の方に目をやるが、カーテンの向こうから日が差している気配は無い。自然の光じゃない。光源は部屋の中だ。寝そべった儘首を巡らす。
 アオがパソコンの前に座っている。画面から青白い光が拡散している。こんな夜中に何をやっているんだろう。アオの身体に隠れて画面が見えない。私は声を掛けようか悩み乍ゆっくり体を起こした。今迄眠りに落ちていた身体は、現実に戻ることを拒むかのようにみしみしと軋んだ。
 暫く上半身を起こした姿勢でアオの背中を見詰めていた。私が起きた事に気付いた様子も無く、アオは微動だにしない。私は声を掛ける為に、ベッドから降りようとして身体を傾けた。
 一瞬体が動かなくなった。発しかけた言葉を思い切り飲み込んだ。ごくり、と喉から大きな音がした気がしてアオが私が起きている事に気付いて仕舞うんじゃないかと思い、冷や汗が出た。
 こんなアオは、見た事が無い。アオは目元を両手で覆い、歯を食いしばっていた。悲しそうな、悔しそうな、絶望しているような、慟哭しているような、そんな表情だった。私はこんなアオを、知らない。
 私は布団を握り締める。
 アオはいつだって笑っていた。勿論不機嫌なときや怒るときだってあったけれど、そんなのは問題にならない位、いつもいつも笑顔だったんだ。其れなのに今、アオの口元は深く大きく歪んでいる。
 如何したの?何があったの?
 訊きたいけれど、怖い。ねえ、アオ、如何したの?怖い怖い怖い。
 私の頭の中は、アオを心配する気持ちと、私の知らないアオの世界への恐怖が入り混じっていた。
 固まった身体を何とか動かし、私はアオに気付かれない様に音を立てないよう注意して布団に潜り込んだ。頭まですっぽりと布団を被ると、光なんて何処にも見えなくなった。汚いところを曝け出させてしまう光なんか、何処にも見えなくなった。
 濃紺の、闇。
 カチャン、と玄関の扉が開いて、閉まる音がした。何処に行くんだろう。私は疑問に思い乍も、布団の中から顔を出そうとはしなかった。

 日曜日。結局あの夜のことを訊けずに三日が過ぎた。アオはあれから少しも変わった様子を見せなかった。何度か切り出そうと試みたけれど、アオに笑顔を向けられる度に私は意気消沈して仕舞った。大体私にはアオのプライベートに足を踏み入れる資格は無い。
 私はアオのことを何も知らない。本当に何も知らない。名前すら知らない。アオが本名なのか、愛称なのか、苗字は何なのか。そんな根本的なことすら知らない。
 知っているのは十八という年齢と、牛乳が好きなこと。オカアサンによく撫でて貰ったこと。そんなの知っている内に入らない。もしかしたら全てが嘘だという事も有り得る。例えそうだったとしても私は納得出来る。アオが此の部屋で過ごすようになってもう半年だというのに。
 …本当は訊けば良いんだろう。資格なんて必要無い。半年も一緒に居るのなら訊く方が普通だ。分かっている。でも私には出来ない。只怖いだけ。色々尋ねて、アオに拒絶されたときが怖いだけ。臆病なんだ。嫌になる。
 私はアオが無駄に高くレタスを積み上げたサラダの頂点に君臨したミニトマトをフォークで突き乍、向かいに座るアオの顔を見る。アオは自分で作ったクセにオムレツに入った人参を必死に取り出していた。初めから入れなければ良いのに。
 アオが私の視線に気付き顔を上げる。「何?」言ってじっと私の目を見た。私は首を横に振って笑って、何でも無いことを見せる。アオは不思議そうな顔をして又人参の撤去作業に移った。私はオムレツを口に運ぶ。いつもは塩胡椒がたっぷりと入っていて鹹い位なのに、今日のオムレツは何だか物足りない。
 片付けをし、図書館に行こうと準備をしていると、鞄の奥から新見さんに貰った美術館のチケットが出てきた。コップの包みの下に押し潰されていたチケットは、大分皺が付いてみすぼらしくなって仕舞っている。見ると今日が期限だった。
 「ねぇアオ、美術館のチケット貰ったんだけど行く気ない?」
 部屋の隅でもそもそと着替えをしているアオに尋ねる。アオはシャツのボタンを留めた儘、上から被ろうとしている途中の姿勢で動きを止め、此方を向く。頭にシャツが引っ掛かり、ネズミ男みたいで何だか間抜けな格好だ。
 「一砂今日は図書館に行くって言ってなかった?」
 「其の予定だったんだけど。チケット無駄にするのも勿体無いし。」
 貧乏性だなぁ、とアオが笑う。でも折角貰ったんだから行かないと悪いじゃない。其れに元元美術館は好きだ。現実とは切り離されたような独特の空気がたゆたっているから。白い空虚な空間にぽつんと絵が浮かんでいる。人間達は皆其れを見上げていて、ずぶずぶと沼に沈んでいく。見詰めれば見詰める程、底へ底へと沈んでいくのに、皆一心不乱に見詰め続ける。誰も自分が沈んでいくことなんて気にしない。だから私も安心して沈んでいける。
 「御免、今日は一寸約束があるんだ。」
 すぽんと、アオは漸くシャツを被った。
 「そっか、じゃあ一人で行ってくるよ。」
 私はチケットを鞄の中に戻した。
 約束って何だろう。誰と約束しているんだろう。訊けば簡単に教えて呉れることなのかも知れない。 「約束って何?」其れだけの短い言葉を発すれば良い。そんな簡単なことなのに踏み出せない。
 私は着替えを再開したアオの背中を少しの間見詰め、アオの手がズボンに掛かったのを見て慌てて目を逸らした。

 美術館は日曜日の昼間ということもあって人でごった返していた。入口前の庭園ではお弁当を広げる家族連れやベンチに腰かけ画集を捲る老年の男性、階段に座り込んだカップルの姿等が窺える。中に入るとチケットを買うブースには行列ができていた。私は此れ程の人が居るのかと思い、入るのを躊躇いエントランスをうろうろうろうろ行ったり来たりしていた。其の間にもどんどん人が展示室の方へ吸い込まれていく。此処まで来て引き返すのも馬鹿みたいだ。私は立ち止まり、一度大きく息を吸ってチケットを取り出した。人が沢山居るとは言っても中は静かな筈だ。こういった場所に来る人は大抵マナーを守る人が多いから。
 中に入ると予想通りすごい人で、人を掻き分けていかないと絵の前には辿り着けなかった。絵の近くに行くのは早早に諦め、私は足音を立てないようにゆっくりと歩き乍一枚一枚の絵を遠くから眺める。
 認められず、苦しい生活を送る画家が多い中、モネの生涯は比較的裕福であったという。パリの食料卸商の息子として産まれ、実家に頼る事も出来た。画商や実業家で彼を支援して呉れる人間も居た。生きている間に絵を売って食べていくことも出来た。
 しかしだからと言って、必ずしもモネは幸せだっただろうか。戦争、二人の妻の死、視力の減退、そして息子の死。人々に認められる代償としては大きいのだろうか小さいのだろうか。そんなのは本人でなくては分かる訳がない。
 それでも、彼の作品は光で満ち溢れている。木々の隙間から零れ落ちる白い光、水面に反射する光、光の画家と呼ばれるモネのキャンパスの中には雨の様に光が降り注ぐ。余りにも鮮やかな雨。
 嗚呼光が痛い。
 私はいつも光から逃げるようにして生きてきた。全てを偽り無く照らし出す光。冬でも日傘を差して、俯き加減に歩いてきた。汚い自分を、人々の前に曝け出すなんて出来なかった。私は絵を直視出来なくて、少しだけ目を伏せた。其れでも淡く揺らめく輪郭は、視界の端に残像の様に焼きついていた。
 展示のメインの睡蓮の連作の飾られた部屋に足を踏み入れると、予想通り其処は人で溢れていた。他の部屋より大きく開いた空間に今迄とは比べ物にならないヒトのニオイが渦巻いている。皆為るべく絵の近くへ行こうと必死になっている。部屋の外に押し出されて仕舞い、諦めて立ち去る人も居た。
 睡蓮なら幾らでも本で見ることが出来る。私は其の部屋を足早に通り過ぎようとした。
 其のとき部屋の中央の臙脂色のソファに腰掛け、恋人らしき男の子に肩を抱かれている女の子が目に入った。裾に細かい花の刺繍が入ったオリーブ色のワンピース。綺麗に伸びた栗色の髪。オレンジ色のマニキュア。長い睫の奥にある瞳は壁の絵に注がれている。うっとりと陶酔したような、甘く柔らかな視線。
 私は女の子を凝視した儘動けなくなった。
 痒い。左腕が痒い。熱を持って物凄く痒い。掻き毟りたい。爪を立てて、血が滲む迄。
 私は右手で思い切り左腕を握り締め、必死で衝動に耐えた。
 私の視線に気付いたのか女の子がこっちに顔を向けた。大きな目が私を捉え、驚いた様に見開かれる。
 「ええ、嘘。一砂?」
 美術館に不釣合いな良く通る声。男の子は何事かと突然立ち上がった女の子を見上げている。
 「梢ちゃん…」
 女の子、梢ちゃんは人ごみを掻き分け、笑顔で私の方に駆け寄ってくる。フレアスカートが白い空間にひらりと舞う。周りに居た何人かが彼女に無言で非難の視線を送る。
 「ホントに一砂?えー久し振りー。何年振り?」
 梢ちゃんは満面の笑みで私の前に立った。
 「梢ちゃん、声。」
 梢ちゃんは、あっ、と小さく声を漏らし口に手を当て、周りを見回した。梢ちゃんに視線を送っていた人達は又絵の方に視線を戻した。
 「梢、知り合い?」
 後を追ってきた男の子が声を潜めて尋ねた。背が高くて髪の毛はつんつん立っていて一重瞼の切れ長の瞳が鋭さを感じさせる男の子。
 「うん、中学の頃のクラスメイト。でもホントびっくりだよね。一砂も此の辺に住んでるの?」
 中学の頃のクラスメイト。中学三年、私が初めて腕にカッターナイフを入れたときのクラスメイト。
 「うん、まぁ。」
 私は曖昧に返事をした。口角を上げることに神経を集中していて舌が上手く回らなかった。口の中が急速に乾いていく。心臓に指を突っ込み引っ掻き回されている様な感覚に陥る。喉の奥から石でも込み上げてくるかの様。
 別に梢ちゃんが此の左腕の事を知っている訳じゃない。別に梢ちゃんが原因で此の左腕が存在する訳じゃない。其れなのに、私の中は責められている様な気持ちで一杯になる。
 梢ちゃんは笑顔で男の子に向かって話し掛けている。私の事を話している。「中学の頃すごい仲良かったの。高校に入ってから連絡取らなくなっちゃって。」虚ろな私の頭の中に梢ちゃんの甘い声が響いている。
 「あ、ねぇ一砂、此の後暇?時間有るならお茶でもしようよぅ。」
 私は答える間も無く梢ちゃんに手を引かれ、気付いたら美術館の向かいに在るカフェの中に居た。三メートルはあろうかという天井から床まで突き抜けた大きな窓からは美術館の白い建物が見える。緑の中に浮かんだ白いカタマリ。梢ちゃんは真剣な顔つきでメニューを十分位凝視していた。二度メニューを聞きに来た店員さんに謝って、抹茶パフェとラズベリーパフェで悩んで、梢ちゃんの彼、清水さんの着ている服が赤いという理由でラズベリーパフェを頼んだ。清水さんは珈琲、私はシトラスティーを頼んだ。
 梢ちゃんは一口水を飲むと矢継ぎ早に私に質問した。
 何処に住んでるのあぁじゃあ私ん家と此処から反対方向だ今大学生一砂頭良かったもんねぇ何勉強してるのうわ難しそ片仮名なんて欠片も覚えられないのにまして歴史なんてバイト何してるの似合うー一砂っぽい彼氏は居るのそうなんだ。
 一通り私への質問が終わると梢ちゃんは自分の近況を語り始めた。清水さんは少し笑って珈琲を口にする。
 私はねぇ短大出て今は保母さん友達に言うと皆どっちが園児か分かんないとか言うんだよねヒドイよねでも今の子供って凄いマセててさー特に女の子園児にしてオシャレや男の子にしか興味ないような子とかやけに冷めてる子とか結構居て何だかなーって感じだよまぁ子供好きだからやってけてるんだろうねー。
 清水君とはねバイトで知り合ったのすっごい平凡にファミレスなんだけど彼が厨房で私がホールで私の可憐なウェイトレス姿に惚れちゃったんだよね今大学四年生で一個年上卒論卒論で篭ってばっかりで体に悪いと思って今日は無理矢理連れ出したのってまぁ全然構ってくれなくて私が寂しかっただけなんですけど。
 途中で「違うだろ、余りにもドジ過ぎて見てられなかっただけだろ」と清水さんがツッコみ「何よう、其処は嘘でも頷くとこでしょう」と梢ちゃんは頬を膨らませる。梢ちゃんの口は滑らかに動いている。清水さんは梢ちゃんに気付かれないように私に目配せし、苦笑いをしてぺこりと頭を下げた。
 私は口角を上げ、温いシトラスティーを啜る。
 梢ちゃんのパフェが遅れて運ばれてくると、梢ちゃんはいただきます、と手を合わせていろんな角度から眺めてみてから、幸せそうにラズベリーソースの掛かったアイスクリームを頬張った。
 「美味しいー。あ、一砂食べる?はい、あーん。」
 梢ちゃんが赤色のアイスと生クリィムをスプーンに載せて私の前に差し出す。じわじわとアイスの表面が溶けていく。じわじわじわじわ。傷口から流れる血の様に。赤く赤く溶けていく。口に含む。甘酸っぱくて冷たいアイスが口腔に広がる。
 「梢、俺にも頂戴。」
 「駄目―、甘いモノは女の子の特権なんですー。」
 「何だよ其れ。」
 清水さんは呆れた様に椅子に凭れ掛かる。
 私はそんな二人を見乍口角を上げ、冷めたシトラスティーを啜る。梢ちゃんは良い子だ。今も中学の頃と何も変わっていない。明るく裏表も無くどんな詰まらない行事でも真剣に取り組むしどんな下らない相談でも親身になって聞いてくれる。表情もころころ変わって見ている此方までついついつられて仕舞う。勉強も運動も出来る訳じゃないけれど、男の子からも女の子からも好かれるタイプ。私だって梢ちゃんとは仲が良かった。昨日見たテレビや鬱陶しい教師や好きな人や色んなことについて話をして、一緒に笑っていた。それなのに。
 如何して今はこんなに居心地が悪いんだろう。
 私は口角を上げることに神経を使い続ける。私は味のしない液体を啜る。

   *

 僕は約束の十分前にcaramel miLkに着いた。
 扉を開ける。店内を見渡してみるがまだ誰も来ていない。
 「いらっしゃいませ…ってどうしたの?お休み中に。」
 新見朝子の口調にはどこか刺々しいものがある様に感じた。僕はそれには気付かない振りをした。
 「待ち合わせなんだ。」
 新見朝子はふうんと首を傾げ、奥の席に水を置いた。僕はそれを無視していちばん入口に近い四人席に腰を下ろした。「むか。」新見朝子は小さく言って水を僕の方へ持ってきて、どんっ、と音を立てる位乱暴に置いた。水が跳ねて僕の顔に掛かった。僕は右手で濡れた口の辺りを拭う。
 水曜日の深夜、正確には木曜日か、キィから電話があった。深夜の二時半。非常識な時間だ。もっともキィが僕相手に常識を適応させるとはこれっぽっちも思えないけれど。
 僕はキィのベッドではどうしても眠る気になれず、固い床の上で毛布に包まって眠っていた。それでもなかなか眠気はやってこなく、真夜中になって漸くうとうとしかけたところに騒々しい着信音が鳴り響いた。僕は毒づきながら携帯を手に取った。
 「誰だよ、こんな時間に。」
 携帯に浮かぶ僕の携帯の番号を見て、一瞬混乱した。僕から僕に掛かってくる電話。まるでどこかのホラー映画だ。直ぐに今自分の携帯はキィのところに有るのを思い出し、自分の馬鹿らしさを笑った。
 少しだけ、一砂にバレたんだろうかという考えが頭を過ぎった。そうだとしたら僕はどうすれば良いんだろう。一砂の元に戻れるはずは無い。一砂は警戒心が強いから。僕達の“遊び”に使われたなんて知ったら二度と彼女の世界に僕が存在する事は無くなるだろう。
 元の生活に戻るだけか。そうだ、それだけのことだ。なんてことは無い。
 荒れた家からバイトに行って、生きる為にお金を稼いで、お金を稼ぐ為に生きていくだけだ。それだけのことだ。
 僕は電話に出るべきか出ないべきか悩み、携帯を持った儘の姿勢で固まっていた。暫くすると留守電に切り替わり、電話は切れた。僕は携帯をベッドの上に放り出して毛布に包まり、また床の上に横になった。
 しかしまた数秒としないうちに音楽が鳴り出した。「ああ、もうっ。」僕は毛布を蹴り飛ばして渋々と電話に出た。
 キィは挨拶も無く唐突に言った。
 「親父からお前にメールが来てた。」
 え?予想外の言葉に僕は咄嗟に言葉を返せなかった。
 キィの不機嫌そうな様子が携帯電話の向こうから伝わってくる。暫く二人共沈黙していた。どうやら僕の言葉を待っているようだ。しかし何も言えないでいる僕に耐えかね、キィの方から口を開いた。
 「一度三人で会って話したいって。今度の日曜日の三時、場所はこっちに任せるって。」
 今更?今更ぼくら三人が集まって何の話をするというのだろう。また三人で暮らそう?いや有り得ない有り得ない。あの父親がそんな感傷染みたことを言う訳がない。
 「三時にcaramel miLkで。」
 キィは早口でそれだけ言うと電話を切った。caramel miLk?何を考えて?心なしかキィの声が震えていたような気がした。怒っているのか戸惑っているのかはよく分からなかった。
 「で?待ち合わせって誰と。まさか女の子?」
 新見朝子が僕の向かいに腰掛ける。よっぽど暇らしい。見回してみると日曜の昼間だというのに客も三組しか居ない。若い三人組の女の子達と子連れの主婦のグループ、一人でノートパソコンに向かう眼鏡の女の子。どのテーブルにもコーヒーやら紅茶やらのカップが置かれていて、もう会計くらいしか仕事はなさそうだった。
 僕は新見朝子の問いには答えずに水を一口飲んだ。新見朝子はそんな僕の態度に眉を顰めた。
 「何なのよ、この間から感じ悪い。」
 僕は水を飲もうとコップに手を伸ばした。しかし新見朝子がそのコップを自分の元に引き寄せ、僕を睨んだ。
 「で?いつまで休むつもりなの?まさかこの儘辞めるなんて言い出さないわよね?」
 「さあ。」
 「さあって何?」
 だって僕には答えようが無い。キィがこれからどうしようと思っているのか、僕には分からない。
 「いくらここがいつも暇だからって急に辞められたら…」
 カラン。
 言いかけのところで、扉に取り付けられた鐘が乾いた音をたてる。
 反射的に新見朝子が立ち上がる。「いらっしゃ…」彼女の言葉は途中で止まった。視線は入口の方に固定されて動かない。僕は扉に背を向けている。それでも誰が来たか位分かる。僕はカウンターに掛けられた時計を見る。三時ぴったりだ。
 キィは足早にテーブルに近寄り、僕の左隣に座った。新見朝子は言葉を発することが出来ずに、口を金魚の様にぱくぱくさせながら、僕とキィを交互に見詰める。一体目の前で何が起きているのか処理しきれていないみたいだ。でもまあそうだろう。僕とキィは本当によく似ている。何年も一緒に暮らしていなかったと言うのに顔は勿論、体つきも髪型までも殆ど変わらない。ばらばらに見れば誰だって同一人物だと思うだろう。
 だからこそキィはゲーム≠提案し、そして僕もあのとき同じことをしたんだ。
 あの、父親と母さんが離婚するというときに。
 「それで親父は?」
 「まだ来てないよ。」
 短いやりとり。僕等はそれ以上口を開こうとはしなかった。横目でキィの方を見ると、目を閉じて眉間に皺を寄せていた。
 「ちょっと…どういうこと…」
 口を開こうとしない僕等の代わりに、漸く新見朝子が口を開いた。
 「ただの双子だよ。」
 「双子?」
 新見朝子が問い返す。
 「そう双子。それ以上でも以下でも無い。」
 戸惑う新見朝子とは対照的にさらりとキィが言った。そして付け足した様に「コーヒー。」と言うとまたすぐに目を閉じた。怒っている様に見える。何に対して?
 新見朝子もそれ以上話し掛けるのが躊躇われた様で、ちらちらと僕等の方を気にしながら遠ざかっていった。途中コーヒーを二つ運んできたが、やっぱり何も言わずに去っていった。キィはむっつりした表情の儘コーヒーを飲んだ。
 僕もコーヒーを飲もうとして、フレッシュを探したが付いていなかった。新見朝子を呼びつけるのも憚られ、何だか砂糖すら入れる気を殺がれてしまった僕はブラックの儘口に流し込んだ。苦い。しかも熱い。冷たいミルクをたっぷり入れて温くしたコーヒーが飲みたい。
 約束の時間を過ぎても父親が現れる様子は一向に無かった。僕達は無言の儘待ち続け、結局父親が現れたのは三十分以上も過ぎた頃だった。
 新見朝子が席に案内する。何故だか彼女が緊張しているようで、言葉や動きが少しぎこちない。別に緊張する必要なんてどこにもないのに。
 日曜だというのに父親はスーツにネクタイ姿で書類が沢山入りそうな黒い鞄を抱えていた。何年も姿を見ていなかったというのに、少し白髪が混じり始めた以外は老いた印象を与えさせない。体形は崩れるどころか以前より引き締まって筋肉質になっているし、目付きだって一層険しさを増している。ネズミくらいなら視線で殺せそうだ。きちんとした身なりなのに何だかマフィアの親玉みたいだった。
 「再婚することになった。」
 彼は席に着くと水を飲む事も注文をする事も無く、唐突にそう言った。
 再婚。僕はその言葉を反芻する。コイツが再婚。どうせ財産目当ての女なんじゃないの。でもコイツは自分の利益にならない人間は容赦なく切り捨てる。財産目当ての浅ましい女なんかと長く続くはずはない。
 何にしたってよっぽど奇特な人間が此の世には存在するらしい。そんな人間が居ると知っただけで、今迄生きてきた価値があるってものだ。
 父親は鞄の中から二つの茶封筒を取り出す。手紙を入れる、という用途にしては不自然なまでに膨らんだ封筒だ。この男が手紙を入れる為に封筒を使ったところなんて見たことないけど。僕とキィの前に一つずつ、その封筒を置く。閉まりきらない封筒の口からちらりと中身が見えた。
 「だからもう関わるな。会社も彼女の子供に継がせる。お前達はもう大人なんだ。自分の事くらい自分で出来るだろう。」
 どうやら“彼女”は子連れらしい。だから僕達の存在は邪魔。成程ね、理解した。出来の悪い息子二人を、自分の思い通りにならなかった自分の利益にならない存在をさっさと切り捨てようってことか。
 分かりやすい。物凄く分かりやすい。笑えてくる。子供の頃、まるで自分のもののようだったキィの気持ちは今少しも分からないというのに、子供の頃、到底理解出来なかったコイツの気持ちは手に取るように分かる。
 封筒の中身は手切れ金≠チてことか。しかしこの厚さはどう少なく見積もっても百万や二百万じゃない。これだけの現金を出そうと思う程には父親の責任を感じていたということだろうか。単に金が有り余っているだけなのかも知れないけれど。多分後者だ。
 「ふうん、それはオメデト。」
 僕は封筒をパーカーのポケットに仕舞う。かつて父親だった人間は立ち上がり、何の言葉も無く店から出て行った。
 僕は冷め切った苦すぎるコーヒーには手を付けず、水を口に含んだ。あの男を待っている間にすっかり氷が溶けてしまった水は、生温くて気持ち悪い。
 キィは震えていた。封筒には手をつけず、固く握り締めた拳をテーブルの上に乗せ、俯いて体を震わせていた。
 新見朝子は恐る恐る僕等に近付いてきた。彼女にはもう、どっちが自分の知っている人間なのか区別が付いているようだ。彼女はゆっくりと、震えるキィの肩に手を置く。
 キィは火が付いた様にその手を振り払い、店を出て行った。余りの勢いに店中の人間が僕等の方を見た。新見朝子は暫くキィの走り去った方を眺めていたけれど、やがて大きな溜息を吐いて僕の方に向き直った。
 「じゃあどういうことなのか聞かせてもらいましょーか?」


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