MILK5



   *

 辺りは一面真っ暗だった。何処に何が在るか全く分からない。真ん中に向かって吸い込まれてしまいそうな闇一色。濃い青色をした闇はさらさらと私の肌を撫でていく。頬を撫で肩を伝い腕を滑り落ちていく。ひんやりとしていて火照った体には心地よい。足元に広がった闇は又周りに拡散し何処かに吸い込まれていく。
 歩いてみる。一歩一歩の足音が矢鱈と周囲に広がる。ビブラートがかかったみたいに音はうねっていて其処ら中に反響する。自分が歩いている場所が分からない。ううん、其れどころか自分の足の位置すら分からないような、そんな感覚に陥る。足音は次から次へと重なり合い耳を劈く程の音に為る。
 歩くのは止めて其の場に蹲った。顔を膝小僧の間に埋める。足音は一枚一枚皮を剥ぐ様に消えていき、次第に何の音もしなくなる。正確に言えば耳はきぃーんという音を拾っている。でも其れは本当に何も音がしない時に聴こえる音。音と言って良いのかもよく分からない。周囲から聴こえてくるモノなのか耳の中だけで奏でられている幻聴の様なモノなのか、其れすらも分からない。
 私は体中で闇を感じ取る。暗さ、冷たさ、静けさ。闇は目から鼻から口から毛穴からも入り込み私の体を侵食していく。
 嫌な感じはしなかった。私の体は闇を拒絶していない。でも矢っ張り周りが全く見えないのは不安が残って少し光が恋しくなった。何も見えなくなることを望んでいた筈なのに。人間って如何してこう矛盾無しでは生きられないんだろう。
 そんなことを考えていたら右足の甲の辺りに一筋光が差し込んできた。糸の様に細くて弱々しい光。余りにも弱々し過ぎて周りを照らすには全然足りない。
私は上を見上げる。其の淡いクリィム色の光が何処から降りてきているのか確認は出来ない。  そっと光に手を伸ばしてみる。光は私の掌にぽたりと雫となって落ちる。思わず其の雫を落とさないように固く手を握った。
 其の瞬間光は指の隙間から鋭く弾け飛び、四方八方に散らばった。
 濃い青色の闇は次々と光の波に飲み込まれていく。私の体の中に、骨迄染み込んだ闇も、強い光に悲鳴を上げて消えていく。何だか体がちくちくと痛んだ。
 全ての闇を飲み込んでも光は衰えることなく、どんどん其の濃度を増していった。一度は光に照らされて何処迄続いているのか分からない石畳の道が見えたのだが、余りの光の強さに直ぐに見えなくなった。
 目を開けていられない。肌がちりちりと焼かれる音がする。耳元でごぉーっと光の波が通り過ぎていく音がする。
 光は闇を照らすもの。だけど強過ぎる光は其れも又、闇でしかない。全ての視界を覆い隠す光。そんなもの最早光と呼べない。黄色い、闇。
 私の体は光の波に押し倒され落ちた。地面に激突することは無く、更に下へ下へと落ちていった。

 目を覚ますとアオが顔を覗き込んでいた。嗚呼、夢を見ていたんだ。
 「一砂今日学校でしょ。時間大丈夫?」
 如何やら朝御飯を食べた後、未だ時間が有ったからってテーブルに突っ伏して寝て仕舞ったらしい。ここ最近徹夜続きだったから体が疲れているんだろう。私は軽く伸びをする。目が何だかぼやけていて擦りたかったけど、アイラインが取れてしまうから其れは諦めた。
 私はのろのろと鞄にお弁当を詰め、立ち上がる。
 「行ってきます。」
 「うん、行ってらっしゃい。」
 アオが笑う。
 商店街を抜け地下鉄に乗る。学校は此処から四駅向こうに在る。電車の中は暖房と人の体温で朝食が込み上げるんじゃないかと思う位だったけれど、何とか堪えて扉に凭れ掛かる。
 久し振りにあの夢を見た。あの夢は小さい頃から見続けている夢だ。小学生の頃位からだっただろうか。暗い闇と明るい闇。私はいつも闇に呑まれて落ちていく。
 凭れ掛かった扉から電車の揺れる振動が直に伝わってくる。
 何であの夢を見たんだろう。あの夢は苦しいときにしか見なかった。此の世界に居られないと思うときしか見なかった。部屋の隅で一人で膝を抱えていた休日。表面で笑って裏では直ぐ人の悪口を言い合う友人達。動物の死体が転がっている国道。私のしていることなんて欠片も気付かずに笑っている両親。そういうものに嫌気がさした夜に見た夢。別に死にたい訳じゃないのに歩道橋の上から飛び降りてみたいと思ったときに見た白昼夢。其れなのに。
 今は辛くなんかない。生きてるだけで叫びだしたくなることなんかない。あの夢を見る理由なんて何もない筈。高が夢だ。そう深く考えることなんかないのかもしれない。私は一呼吸すると閉じていた目を開いた。人工的な明かりがぼんやりと列車の中を照らしている。私が居る扉と逆の扉が閉まるところだった。其処は私が降りる筈の駅だった。

 遅れるなぁ、そう思ったら途端に授業なんて如何でも良くなってきた。教養科目だし教科書さえあればテストは合格できる科目だし。今迄真面目に行っていたことがすごく馬鹿らしく思えてくる。私は何となしに電車に乗り続けていた。頭からは相変わらず電車の振動が伝わってくる。
 そぉだ。この前のカフェに行ってみようかな。確かもう少し電車に乗っていれば着く筈だ。
 私はこの時、前にあのカフェで見たものなんてすっかり忘れていた。

 地下鉄を抜けると空の青さがやけに目に付いた。昨日迄の雨が嘘のように空は雲一つ無く晴れ渡っている。地面には所所水溜りが残っていて、其れの一つ一つが太陽の光を浴びて虹色に染まっている。砕いた飴玉を散りばめたみたい。
 日傘を差して歩き出す。此の前来たときは迷わないように簡単な道しか通らなかったから多分辿り着けるだろう。道を覚えるのは余り得意ではないけれど。
 垣根に巻きついた植物にも雨粒が光っていて、前の様な単調で歪な印象は感じられない。私が歩く度に葉が小さく揺れて、葉の上の水滴がぷるぷると震える。私は時時わざと葉を手で弾いて水滴を飛ばした。ざあっと音をたてて水滴は私の足元に降り注いだ。靴の中にも水が入り込んできた。
 caramel miLkは思った通り直ぐに見つかった。何だか前より歩いた距離も短い気がする。まぁ前は当てもなく歩いていたから長く感じたんだろうけど。
 雨に濡れた木製の重重しい扉は荘厳な雰囲気を醸し出している。矢っ張り教会みたい。私は懺悔でもしなきゃいけないかしら。カミサマには許されないことをしてきているだけにそんな気分になる。私は自分の左腕を軽く握り締める。
 深呼吸をして手を腕から離し、ゆっくりと扉を開ける。中から話し声が聞こえた。
 「だからちゃんと来てよね。直ぐに。大体連絡も無いなんてこっちが迷惑するんだから。」
 見るとカウンターの中で女の子が電話をしていた。緩いウェーブ掛かった髪の女の子。此の前ハンカチを差し出して呉れた子だ。えぇっと、名前は確か新見朝子さん。
 新見さんは私に気付き携帯を耳に当てた儘、仄かな笑顔を浮かべて頭を下げた。
 「じゃぁお客様みえたからもぉ切るよ。早くしてよね。」
 そう言うと新見さんは携帯を切った。済みません。彼女はもう一度笑顔を私に向けた。
 「又来て頂けたんですね。嬉しいです。」
 私は席に着いてホットココアを注文する。新見さんは緩やかな足取りで奥へと消えていく。私は一息ついて辺りを見回す。他に客はいない。今日のBGMはバッハだった。此処のマスターはクラシック好きみたい。
 運ばれてきたホットココアには生クリィムがたっぷり乗っていて、更に上から削ったチョコレートが掛けられていた。此の生クリィムって美味しいけど直ぐに溶けちゃうんだよね…。私は好きなものは最後迄残しておきたいタイプだから、カフェで飲むココアはいつもそんな下らないことで一寸憂鬱になる。取り敢えず溶けないうちに生クリィムをスプーンで掬って口へ運ぶ。
 カウンターの方をちらりと見ると新見さんは暇そうに欠伸を噛み殺していた。こんな様子で店って成り立つものなんだろうか。まぁ住宅街に在るし、お昼になれば近所の奥様方で賑わうのかもしれない。そんなことを考えていると、私の視線に気付いたのか新見さんがカウンターからそろりと近寄ってきた。
 「入谷さんは今日はお休みですか?」
 「え…ううん、違うの。授業に遅れそうだったからさぼっちゃった。」
 言い乍気付く。
 「あれ、新見さん、学校は?」
 今日は平日。高校生なら学校がある筈だ。大学の授業のようにそう軽軽と休めるものでもない。新見さんはバツの悪そうな顔をした。あちゃー、と頭を抱えている。
 新見さんの話に寄ると此処は叔父さんの経営するカフェで、新見さんは開店業務を手伝ってから学校に行くらしい。いつもは開店して直ぐ別のバイトの子が来るのだが、今日は連絡も無く来なかったので仕方なく此処に居るそうだ。学校に「体調が悪いので遅刻する」と連絡を入れて。どうやらさっきの電話は其のバイトの子にかけていたみたいだ。
 私と新見さんは声を殺して笑った。イケナイ事をしている一体感みたいなものが在った。
 新見さんの表情はころころと変わる。笑っていたと思ったら急に真剣な顔をしたり、そうかと思ったらおどけてみせたり。見ていて私は羨ましくなる。こんな女の子に為れれば良かったな。そうすれば親に疎ましがられることも生きてることに罪悪感を覚えることも無かっただろう。でも私は私でしかない。分かってる。
 「そうだ。入谷さん、絵とか興味有ります?」
 私の返事を聞く前に新見さんは店の奥へと走っていった。だが直ぐに何かを手にして戻ってくる。
 「此れ学校で配られたんですけど私行かないんですよね。要りません?」
 受け取ると其れは美術館のチケットだった。クロード・モネの睡蓮が分厚い紙に印刷されている。折角なので貰っておくことにした。是非彼氏とでも行って下さい、そう新見さんが茶化してくる。私は彼氏なんて居ないとも言えず、苦笑いを返しておいた。
 私は美術館のチケットを仕舞おうとバッグに手を入れた。かさ、と何か慣れない感触がある。何だろう。そう思って除くと其処には美術館のチケットと同じぐらいの大きさの包みが在った。そぉだ、未だアオにコップを渡してないんだ。ごたごたと色々在ってすっかり忘れていた。
 私は其の包みをバッグから取り出してみる。あんなに綺麗にラッピングされていたのに包みは歪んで、しかも少し破れていた。

   *

 つーっ、つーっ、つーっ。
 電話は一方的に切れ、受話器からは虚しい音が響いている。
 騒々しい携帯の着メロで起こされた。何か良い夢を見てた気がするのに。どんな夢だったかなんて欠片も覚えてないんだけど。とにかく気分が悪い。
 着信履歴を見る。「新見朝子」。確かバイト仲間だとかキィが言っていた。早く来いだって。無視してもう一度寝ようかな。行ったら確実にキィじゃないってバレるし。でも無視しててもどうなるものでもないし、別に僕にはバレて困るようなことは無かったことを思い出す。それにキィのベッドは固くて寝心地が悪い。この儘寝てたら背中が痛くなりそうだ。僕はのろのろとベッドから這い出した。
 クローゼットに入っているキィの服を適当に取り出し、袖を通す。気持ち悪いくらいぴったりだった。当たり前なのかもしれないけれど。何だかムカついた。
 キィの働くカフェは歩いて十五分ぐらいのところに在る筈だった。しかしそこは住宅地の奥の方に在って、結局辿り着くのに三十分以上かかってしまった。しかも一瞬そこがカフェだということが分からず、僕は少しの間扉の前に立ち尽くしていた。飲み物の名前を書いた黒板が目印になっているぐらいだ。
 ぼーっとしていると向こうから扉が開いた。僕は思わず後ずさる。水溜りに踏み込んでしまいズボンの裾が少し濡れた。
 「やっと来たー。もう、何してたのよ。」
 出てきたのは僕と同い年ぐらいの女の子だった。白いシャツに黒いベストとプリーツスカート。ここのカフェの制服だろう。すらっとしていて細身なその服が好く似合っていた。声からすると彼女が新見朝子だろう。
 僕がじーっと観察していると新見朝子は怪訝そうな目を僕に向けた。
 「桐人?どうかしたの?」
 一瞬何のことだか分からなかった。
 キリト?
 きりと?
 桐人。
 ああ、そう言えばキィはそんな名前だったような気がする。みずしま、そうだ水島桐人。僕はその名前を頭の中で反芻する。みずしまきりとみずしまきりとみずしまきりと。何でだろう。違和感しか浮かんでこない。
 新見朝子は考え込んでいる僕を不思議そうに見つめながら、僕を中に入れた。僕は何も言わずそれに随う。それにしても僕は如何するべきなんだろう。キィのフリをして仕事をするなんて絶対に無理だ。キィの真似をする以前の問題で、どこに何があるのかすら分からないんだから。
 「何してるの?早く着替えたら?」
 そう言われてもどこで着替えたら良いか分からない。くそっ、どうしろって言うんだよ。面倒臭い。何かもう何もかも面倒臭い。
 バラしてしまおう。そうすればこの子がキィを止めたりなんかしてくれちゃったりするかもしれない。そうすれば僕は元の生活に戻れる。
そう思って気付く。…僕はこんなに一砂との生活に執着していたんだろうか。いつでも捨てられるものだと思っていたのに。単に雨風が凌げれば、独りじゃなければどこだって良かったのに。
 「気分でも悪いの?」
 いつまで経っても動けないで居る僕を新見朝子はカウンターの椅子に座らせた。僕の額に手を当てて熱を測っている。
 「んー、熱はないっぽいなあ。むしろ冷たいくらい。」
 バラしてしまおう。
 バラしてしまおう。
 頭ではそう考えているのに口が動かない。口腔が粘膜でべとついて口を開くことが出来ない。手が冷たい。背中に嫌な汗を掻いている。妙にひんやりとしていて気持ち悪い。
 「調子悪いなら無理しなくて良かったのに。」
 そう言って新見朝子は紅茶を運んできた。紅い液体に照明が映ってゆらゆらと輝いている。何だか見ていられずに、僕はその紅茶を一気に飲み干した。ミルクが欲しかったが添えられていなかったので仕方なくストレートで飲んだ。そういえばキィは牛乳が嫌いだった。紅茶の苦味が舌先に残る。火傷もした。猫舌なのに一気飲みなんてするからだ。でもそれで漸く、少しだけ冷静になれた。
 「別に体調が悪いわけじゃないよ。」
 僕は立ち上がり店の奥へと歩く。新見朝子が毒気を抜かれた様な顔をしている。
 カウンターの裏は厨房になっていて仰々しい冷蔵庫やらコンロやらが並んでいた。ステンレスの銀色で埋め尽くされていて、でもその人工的な色合いに落ち着いた。シンクの前には四十代位の男が立っていて、洗い物をしながら、目だけを僕の方に向けてきた。口の周りを覆う髭はもみあげと繋がっていてどこが境界なのか分からない。だからと言って汚らしい雰囲気は無い。童話に出てくる猟師みたいな顔立ちだ。恐らくコレがマスターだろう。
 「済みません。ちょっと急用ができたんで暫く休ませて下さい。」
 口を開こうとしたマスターより早く、僕はそう言った。マスターは紡ぎかけた言葉をどこにやっていいのか分からずに、呆然としていた。代わりに後から入ってきた新見朝子が「ええっ」と声を上げた。
 マスターもその声で我に返ったのか、出しっ放しになっていた水を止める。蛇口の下に置いてある盥は水がなみなみと溢れかえっていた。
 「暫くってどれ位だ?」
 「分かりません。」
 僕は即答した。マスターは少し考えて、「そうか。」とだけ言った。そしてまた洗っていたマグカップに手を伸ばす。マスターが蛇口を捻るのを確認して、僕は頭を下げて厨房を出た。
 「ちょっと桐人っ。」
 新見朝子が後を追ってくる。僕は構わずに出口に向かう。新見朝子が急いでエプロンを外している気配がした。僕はカフェを出て歩き続ける。駅迄の道を歩く。背後で扉を開く音がする。後ろに目をやるとやっぱり新見朝子が必死で走っていた。右手には裸の儘の財布と携帯を持っている。黒のパンプスでは酷く走りにくそうだ。
 それでも歩いている僕は走っている新見朝子にすぐに追い付かれた。彼女は息を整える為に大きく深呼吸をした。
 「いきなりどうしたの?どこに行くつもり?」
 「実家。」
 僕の短い返事に新見朝子は一瞬息を止めた。相当驚いた様だ。それでも僕に付いて歩く事は止めなかった。
 「どうして?お父さんとは上手くいってないんじゃなかったの?」
 キィは父親の事まで話してるのか。
 ふと、この子はキィのことが好きなんだろうと思った。キィはバイト仲間としか言ってなかったし、付き合う迄には発展していないんだろうけど。キィの気持ちはどうなんだろう。信頼を置いていることは確かだろうけど。
 キィのことが好きな女の子は昔から結構沢山居た。いつも僕がラブレターを取り次ぐ役だった。キィと僕の何が違うのか、大人達は余り分かっていなかったけれど、子供達はおぼろげながら気付いていたみたいだ。まあそんな彼女等も、僕が「僕がキィだよ。」と言うとそれを信じ込んで顔を真っ赤にして走り去って行ったのだけど。
 「そっちじゃないよ。」
 新見朝子は顔に疑問符を浮かべて僕を見ていた。「どういうこと?」駅に辿り着いた僕は質問してくる彼女を無視して切符を買った。彼女も慌てて財布から小銭を出し、僕と同じ金額の切符を買っていた。
 車内は空いていたので、七人掛けのど真ん中に腰を下ろして僕は目を閉じた。新見朝子は一人分位の隙間を空けて僕の隣に座った。僕の真意を測りかねている様で、もう何も聞いてこようとはしなかった。暫く僕の方をちらちら見ていたが、僕が何も反応を見せないことを悟ると諦めた表情を浮かべ目を伏せた。がたがたと電車が暗いトンネルの中を走行していく音だけが響いている。
 一砂の暮らすアパートの最寄り駅に電車が滑り込む。改札を出て、地上への階段を上がり、古びた商店街を通り抜け、突き当たった大きな通りを十五分くらい歩くと、築二十年の古びたアパートが在る。一砂はあの部屋から学校に行き、バイトに行き、僕≠ニご飯を食べている。
 別に何の感慨も浮かばない。一砂がどうしていようがキィがどうしていようが、何も感じない。そう思う。
 けれどもしかしてそんなことを考えること自体が、心のどこかでしこりが出来ているからなんだろうか。発車音が鳴り、扉が閉まって駅は遠ざかっていく。
 電車はいろんな路線が集まった総合駅に辿り着いた。僕は地下鉄を降り、エスカレーターで地上に上がって地元のローカル線に乗り換える。新見朝子も黙って付いてくる。
 電車を待つ間、ぼうっと空を眺めた。そんなに長い間地下鉄に乗っていたわけではないのに、太陽を見るのが久し振りな気分になって目を細めた。水色の空にほぐした綿菓子の様な雲がふわりふわりと浮かんでいる。良い天気だ。誰が見たって良い天気だ。
 母さんは雨が好きだった。雨が降ると意味も無く傘を差して庭に出て、地面に出来た水溜りを蹴り上げていた。僕とキィが声を掛けてもにっこり笑顔を向けて、雨粒の落ちてくる空を見上げていた。時折顔に雨を受けて気持ちよさそうにしていた。青と黄色の傘を差して学校から帰ってきたばかりだった僕たちの、どちらかのお腹がぐうと鳴って、母さんは漸く「仕方ないなあ」と笑って僕たちにおやつを用意してくれた。部屋に入ってきた母さんからは、湿った葉っぱや花の匂いがした。

 電車を降りてから三十分程農道を歩いて、母さんと暮らしていた家に辿り着いたときには日も高く上っていた。時計を持っていないから正確な時刻は分からないけれどもう正午は回っているだろう。バイト用のパンプスを履いていた新見朝子は途中で耐え切れなくなったようで、靴を脱いでそれを両手に持って、所々ヒビ割れたでこぼこのコンクリートの上を歩いていた。ストッキングは踵のあたりから伝線して何だか痛々しかった。
 僕は玄関の前に立ち、家全体を眺める。この家に母さんが暮らしていた面影はもうどこにも無かった。緑色の瓦はいくつもはがれ、垣根はすっかり枯れて黄土色になっている。玄関の扉には割れたガラスにガムテープが張られていてみすぼらしいことこの上無い。
 取り敢えず庭に回り、縁側の埃を手で払って新見朝子を座らせた。ぎい、と古くなった縁側が軋んで嫌な音を立てた。新見朝子は足を縁側に上げ両手で擦る。血は出ていないみたいだけど小指と踵の辺りが大分赤くなっているのが窺える。
 「ここもしかしてお母さんの家?」
 新見朝子が問う。
 「お嬢さん、学校はいいんですか?」
 答えずに全く違うことを問い返してきた僕に、新見朝子は不機嫌そうな目を向けた。
 「今更行っても遅刻どころか帰りのホームルームにも間に合わないよ。誰かさんの所為で。」
 別に付いてきてと頼んだ覚えは無いんだけど…まあ唐突に勝手な行動をとったのは僕≠ネ訳だし反論するのはやめておいた。
 「まったく桐人っていっつも自分勝手よね。」
 文句を言いながらも彼女の目は僕に向いていない。どうやら独り言のようだ。彼女の目はゆっくりと荒れ果てた敷地内を動いている。草が伸び放題の庭。倒れた植木鉢。枯葉やどこかから飛んできたゴミが積もった縁側。錆の浮いた雨戸。鳥の糞だらけの物干し竿。母さんが死んで僕が家を出てから誰にも触れられぬ儘、ただ朽ちていく家。放っておけば間違いなく崩壊するであろう家に、新見朝子はゆっくりとゆっくりと視線を這わせていた。僕は自分の内側を曝け出しているような気分になって、落ち着かない。
 母さんが生きていた頃は色とりどりの花が植えられ、どの季節でも眩い色を放っていた庭はもう見る影もなく、荒れ果て、朽ちていくばかりだ。僕はそれを止める術を知らない。止めようとも、思えない。そんなことをしたって何かが返ってくるわけじゃない。
 新見朝子をその場に残し、僕は玄関に向かった。ポケットから鍵を出し、そこで漸く気付いた。
 鍵を持っていない。これはキィの部屋の鍵だ。この家の鍵はキィに渡した一砂の部屋の合鍵と一緒になっている。一砂の好きなウサギのマスコットと一緒になっている。
 はあっ。
 大きな溜息が出た。何をやっているんだろう。僕はここに来て何がしたかったんだろう。
 キィから逃げたかった?一砂のことを忘れたかった?
 違う。捨てたんだ。過去なんて。
 捨てなくちゃ、辛くなるだけだから。
 キィのことも。一砂のことも。
 どうだって良い。
 じゃあどうして、僕は今こんなことを考えているんだろう。どうして全てから逃げるように、この家に戻ってきたんだろう。
 住むところが無くなったからだ。都合良く雨風を凌げる場所が必要だっただけだ。キィの部屋にいつ迄も居るのも癪に障るし。
 僕は必死で自分への言い訳を頭の中に連ねた。手の平に乗った銀色の鍵は、僕を嘲笑うかのように太陽の光を浴びてぎらぎらと光っていた。
 馬鹿みたいだ。いや、みたいじゃなくて正真正銘の馬鹿だ。
 仕方なく僕は縁側の新見朝子のところに戻った。新見朝子は身を屈めて、足元に咲いた小さな黄色い花の花弁を所在無さげに指先で弾いていた。母さんの植えたものじゃない。と言うことは自然に生えてきたんだろう。それでも、何の手入れもされなくてもそれでも、花は鮮やかな色を帯びて咲いている。
 僕が近付くと彼女は顔を上げ、僕をじっと見詰めた。
 「ごめん、帰る。」
 「帰るって…え?何で?」
 新見朝子はたどたどしく言う。呆気にとられて上手く口が回らないようだった。
 「鍵を持ってくるのを忘れた。」
 「えー何それー。」
 彼女はぐったりと項垂れ、非難がましい目を僕に向ける。
 「その辺でスニーカー買ってくるよ。待ってて。」
 言うが早いか返事を待たずに僕は走り出した。逃げるように。
 泣きそうだった。見捨てられた気がした。誰に?母さんに?違う気がする。でも分からない。僕は泣かない為に走る事に集中した。
 中学高校時代を過ごした懐かしい町並みが視界の端を通り過ぎていく。でも僕に振り返る余裕なんて無かった。


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