MILK4



   *

 少し前からアオの様子がおかしい。ぼおっとしていたりいつもの猫の様な笑顔が無かったり。如何したんだろう。コップを割ったこと、実は未だ怒っているのかも知れない。
 でも其れにしては情緒不安定の様な気もする。怒ってる、とかそういった明確な感情が見えてこない。何かと何かの間で揺らいでいる様な。
 もしかしたら火傷と何か関係があるんだろうか。此の間アオが寝ているときに、右の手の平に小さな火傷が見えた。丸く爛れた痕。何をしたらあんな火傷の仕方をするんだろう。
 シャーペンを置き窓の外を眺める。高い高い空に薄い雲がつうーっと流れている。秋の空はとても手が届きそうになくて少し寂しい。だからといって夏の眩し過ぎる空が好きという訳では無いけれど。
 「悠子もう進路表書けたー?」
 同じゼミの吉岡さんがビスケットを摘み乍私の前に座っている小笠原さんの進路表をするりと抜き取った。
 「何?こんなはっきり決まってんの。」
 「んー、まぁね。」
 「えー如何しよう。私未だ何も考えてないよー。」
 三年生の私達はもう進路を考える時期にある。教室の中では数人の生徒が授業の空き時間にさっきゼミで配られたばかりの進路表を書いていた。自分が如何いった道に進みたいかを示すものだ。就職、進学、専門学校、留学、家事手伝い。高校生の頃は大学の先なんて社会人しか無いと思っていたのに、紙の上には様々な選択肢が並んでいる。
 だけど自分に何が出来るかなんて全く分からない。事務をやる姿も想像出来ないし接客が向いているとも思えない。今はバイトで責任も軽いから何とかこなしてはいるけれど。
 実家に戻りたくなければ働かなくてはいけない。家賃だって生活費だって払っていかなくちゃいけない。何をするにもお金がいる。大学を出たら流石に仕送りをして貰う訳にはいかないし。もう此れ以上、親の脛を齧り続ける訳にはいかない。眉を顰める両親の顔が頭に浮かぶ。
 「入谷さんは?もう書けたー?」
 小笠原さんの陰から身を乗り出し、唐突に吉岡さんが私に話を振った。
 私は一瞬途惑い、顔を上げた。
 「ううん。未だ全然。」
  私は曖昧に笑ってみる。「だよねだよねー。」吉岡さんは少しはしゃいでいた。綺麗に切り揃えられたボブカットの髪の毛が揺れる。
 「馬鹿。仲間見付けて喜ぶ事でも無いでしょうが。」
 小笠原さんが机の上に置いてあったファイルで吉岡さんの頭を叩く。吉岡さんは頭を押さえ、恨めしそうに小笠原さんを見た。小笠原さんはそんな視線を軽く受け流し、諭す様に言う。
 「大体もう年明けには就職活動しなきゃなんだよ。何にも考えずに痛い目見るのは自分だよ。」  年が明ければ就職活動三昧だ。自己アピールの為のエントリーシートを企業に提出して、筆記試験、面接、面接、面接。何度も何度も繰り返し、取り繕った事を言い続け、私達は篩に掛けられていく。
 「だって、働いてる自分なんて想像出来ないんだもん。」
 小笠原さんは立ち上がって大きく伸びをした。長い髪が肩を流れ落ちていく。
 「まあ無理もないとは思うけど。つい此の前迄高校生やってた訳ですし。」
 「そうそう、しょーがないしょーがない。だって二十歳なんてまだまだコドモじゃん?」  窓の外の縁の部分に鳩が一羽止まった。吉岡さんは窓を開け、ビスケットを砕いて掌に載せて鳩の前に差し出した。ちっちっちっと息の混ざった声を出し、鳩を引き寄せようとしている。
 籠もった空気の室内に一筋の冷たい風が流れ込む。私は書けない進路表を其の儘に、吉岡さんと鳩の様子をぼうっと眺めていた。
 鳩はなかなか近寄ってこようとはしない。丸い瞳が不安げに吉岡さんの顔と掌のビスケットの間を行き来している。如何したら良い?食べても危険は無い?慎重に慎重に何が一番最善なのかを見極めようとしている。お腹は空いている。でも近付いたら捕まるかも知れない。捕まらないかも知れない。何がいちばん安全で、何がいちばん得をするのか。必死で考えている。鳩だって生きるのに必死だ。
 ぶわっと、強い風が吹いた。
 私や小笠原さんを含む数人の進路表やゼミで使ったプリントが教室に舞った。吉岡さんは「うわきゃー」と小さく声を上げ、慌てて窓を閉めた。ビスケットの粉がぱらぱらと教室の中に落ちた。鳩は驚いて飛び去っていって仕舞った。
 「アンタはもう何やってんのよ。」
 小笠原さんが吉岡さんの頭を小突く。吉岡さんは「痛いー」と大袈裟に声を上げる。
 私は散らばったプリント類を拾おうと床にしゃがみ込む。目に付いたプリント類を全て回収し、其々の持ち主に渡していく。二人は未だ戯れている最中だったので進路表を机の上に置いた。其の時に、ちらりと内容が見えて仕舞った。小笠原さんは出版業界、又は専門学校も考えているようだ。吉岡さんのには「お嫁さん」と書いて消した跡があった。
 結局私の進路表は何も書けない儘、鞄の中に押し込まれた。

 学校が終わってからバイトに行き、職場を出たのは九時過ぎだった。もうコート無しでは居られない程夜の空気は冷たくなってきていた。
 私は商店街を歩き乍、未だアオにコップを渡していない事を思い出した。早く渡さなきゃ。ああいうのは時間が経てば経つ程渡すタイミングが難しくなる。
 何て言って渡そう。
 此の前は御免ね。
 何だか今更な気もする。
 偶然綺麗なコップを見付けたの。
 一寸わざとらしい。
 頭の中には有り勝ちな言葉しか浮かんでこない。こんな簡単な言葉も思い付かないのに未来のことなんて考えられる訳が無い。
 今日はアオが晩御飯を作ってくれている。私がバイト等で遅くなる日の家事はアオの担当だ。
 アオの作る料理はどれも少し味付けが濃い目。特別美味しいとは言えないけれど、アオがどんなにお腹が空いていても私の帰りを待っていてくれるのを思うとそんな事は如何でもいいこと。それに料理を作った筈のアオ自身が偶に顔を顰め乍箸を口に運んでいる様子を見るのは少しおかしい。別に不味くないよ。そう言っても如何やら思い通りの味に作れないことが悔しいらしい。
 私は小さく思い出し笑いをし乍、カーディガンの前をきゅっと合わせて帰路を急いだ。冷たい風も部屋の中を思えば幸せだった。

 アパートに着くと何か喉の奥に突っ掛かる様な感じがした。
 普段なら明かりが漏れている筈のドアの前で鍵を差し込むことが出来ずに、暫く何も考えずに立っていた。
 誰かが階段を上ってくる足音に漸く鍵を開け、ドアノブに手を掛けた。
 明かりが付いていなかったことぐらいは今迄に何回もある。大抵は転寝をして仕舞っていたりで。じゃあこの違和感は何?瞼の裏がざらざらして瞬きが出来ない。
 ゆっくりドアを開ける。
 深呼吸。
 明かりを付ける。
 黒い闇が溶けていく。
 テーブルの上にサランラップの巻かれたオムライスの皿。
 私が出掛けるときにくしゃくしゃになっていたアオの毛布は綺麗に畳んでベッドの下へ。
 妙にすっきりとした室内。
 アオが居ない。
 「え…?」
 思考が止まった。
 何処かに出掛けたのだろうか。急に友達から連絡が来て会うことになったとか。
 でも携帯に連絡も無いし、部屋の中を見渡しても置手紙も無い。
 こんなことは今迄に無かった。
 急いでいて連絡をするのを忘れたとか。其れにしては部屋の中が綺麗過ぎる気がする。毛布なんていつも出しっぱなしなのに。ちゃんと御飯も作ってあるし…。
 私は取り敢えず椅子に座った。
 如何しよう。オムライスは一人分。此れは一人で食べておいてってことなのだろうか。アオがご飯を食べた形跡は無い。食材も減っていないし汚れた食器も無い。
 悩んだが結局私はアオを待つことにした。どうせ一人ではそんなに食欲も湧かない。
 テーブルの上にいつ連絡が入っても良いように携帯電話と、鞄に入った儘だった青いコップの包みを置いた。帰ってきたら渡そう。別に言葉なんていらないや。屹度アオは笑顔で受け取ってくれる。
 帰ってきたら。

 でもアオは其れから帰ってこなかった。

 気付くと部屋が真っ暗だった。

 テーブルの上の携帯電話が着信を告げている。暗闇の中で携帯の光が色鮮やかに瞬いている。私はのろのろと携帯に手を伸ばす。安藤さんからだった。
 「如何したの一砂ちゃん。三日もバイト休んで。風邪でもひいた?皆心配してるよー。」
 ミンナッテダレ?
 私の体は大きな空洞にでも為って仕舞ったみたいで安藤さんの声がすり抜けていく。私は返事もせずに部屋を見渡した。
 帰ってこない。
 連絡も無い。
 こんなこと無かった。
 アオと出会ってから一度も。
 最初は事故にでもあったかと思った。でも其れなら其れで何か情報が入っても良さそうなものなのに其れも無い。
 もしかして別に住む場所を見付けたのだろうか。元元私とアオはお互いに都合の良い関係で成り立っていただけで、恋人同士などではない。私に依存できる人が必要だった様に、アオは恐らく住む場所が必要だっただけだから。
 其れだったら別におかしくない。別にアオには私の存在が必要だった訳じゃないんだから。
 指が冷たい。指だけじゃない。体中冷え切っている。
 そうかぁ、戻ってしまったんだ。アオと出会う前の一人で膝を抱えて眠っていた部屋に。
 携帯電話を耳にあてた儘、空いた左手でアオの作ったオムライスを突いてみた。くにゅり、とケチャップの中に指が沈む。
 三日経ったオムライス。なんだか妙なニオイを放っている。
 そうかぁ、戻ってしまったんだ。アオと出会う前のたった一人の生活に。
 「もしもし?一砂ちゃん聞いてる?」
 安藤さんの声がぽっかり開いたココロの中に響いている。涙は出ない。寧ろ笑えてくる位。
 オムライスの上に掛けられたケチャップは固まりかけた血とそっくりだった。

 店長からも何度か着信が有ったことに気付き、私は謝罪の電話を入れた。安藤さんからのメールも何通か届いていた。居た堪れない気持ちがいっぱいになって溢れ返りそうだった。私にだって未だセカイと繋がっていることは出来るのに、無意識に自ら其れを放棄し掛けていた自分に嫌気が差す。
 自分の左腕を見つめる。其処には不恰好な傷跡が何本も何本も残っている。もうどれもしっかり口は閉じているけれど、此のくっきりと残った線は是からも消えることは無いだろう。
 こんな自分が嫌いだ。弱い弱い自分。自分の存在意義を何処にも見出せなくて、?いて?いて。気付くとカッターナイフを握りしめていて、ぷっくりと血が出て、腕を伝いぽたりと垂れている。中学の頃から続いていた其の行為。死にたかった訳じゃない。只漠然とそうしなきゃ生きていけないと感じていた。夜が来ると、毎日のようにカッターナイフを腕に当てていた。高校三年の春に親にばれて、親の目が怖くなった。親も私の取り扱いに困っていた。親より早く私の行為に気付いていた弟は、随分前から口を聞かなくなった。弟は私の居るときに友達を家に呼ぶことは絶対に無くて、私に軽蔑の目を向けていることは一目瞭然だった。そんな弟の前で私は曖昧に笑って黙ることしか出来なかった。
 何処にも居られない。そう思って高校を出たら一人暮らしをしたいと親に告げた。親は最初は反対していたけど其の反対も表面上のものにしか思えなかった。大丈夫だからと何度も説得し、最後にはOKをだしてくれた。疲れた顔をしていた。何で自分達がこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。目がそう訴えている。御免なさい。私は心の中でだけ呟いた。
 全てが偽物みたいに見えた。友情も愛情も夢も涙も街のざわめきも部屋の静けさも太陽の輝きも夜の漆黒も心臓の鼓動も自分自身の呼吸も何もかも。偽物を消すには切るしか無いと思っていた。誰も信じられなくて誰も自分の世界に入って欲しくなくてかっちり鍵を掛けた。目を潰してしまえば何とか生きていけた。光なんかいらない。
 大学に入っても必要以上の交友関係は築かず、なるべく目立たない様にして過ごしていた。目立たなければ人に不快感を与えることは無いだろうから。目を閉じると世界は海になった。こぽこぽ聞こえる人々の声。私の周りを水の様に流れていく時間。海の底へ落ちていくイメージ。暗い暗い海の底。苦しくなる度何度も何度も思い浮かべる。左腕の傷を握り締め乍。たゆたゆとした空気が心地良くなる迄。 不毛なのは分かっている。でも私は自分を包み込む闇の中から抜け出したくなかった。
 アオはそんな闇の中に足音もたてず入ってきた。気付いたときには私の目の前に立って笑んでいた。アオは闇と溶け込んで闇そのものになった。
 アオが居なくなってしまった今、私の周りに私を守って呉れる暗い闇は無い。
 其れでも生きていかなくちゃ。大丈夫、私は大丈夫。自分にそう言い聞かせる。もう切らないって決めた。アオが初めて此の腕を手当てしてくれたあのときに。
 大丈夫、生きていける。屹度。アオが居なくても。
 一度大きく息をする。周りを眺める。アオの居なくなった部屋を眺める。
 アオが居たときは大抵部屋の中は散らかっていて、こんなにすっきりとした景色は久し振りだった。 私は目を閉じてもう一度深呼吸をして、目を開いた。
 ベッドの下に置いてある毛布をクローゼットに仕舞おうと持ち上げると、小さな四角い物体が転がり落ちた。私は其れを拾い上げる。アオの携帯電話。アオが此の部屋に住むようになったときのたった3つのアオの持ち物の片方。別におかしくなんて無いのかも知れない。もう此れは解約するつもりなのかも。
 私は如何していいか分からなくて、携帯電話を掌に載せてじっと見つめていた。
 ふいに玄関のチャイムが鳴った。私は携帯を毛布の上に置き立ち上がる。扉越しに「誰?」と問い掛けると暫く間があって「…僕…」と、消え入る程の小さな声で返答があった。そうっと玄関のドアを開ける。
 其処には心細そうな表情をして俯いているアオが居た。
 「アオ…出て行ったんじゃなかったの?」
 「御免ね…心配かけた…?」
 叱られるのを怖がっている子供の様に恐る恐る口を開く。私は首を振った。少し混乱している頭を整理する為に。
 「もう帰ってこないんだと思ってた…。…お帰りなさい。」
 何とか笑ってそう言うとアオは此方を伺う様に顔を上げた。
 「ただいま…」
 ぽつりと言うとアオは小さく笑顔を見せた。何だか其の顔に胸がいっぱいになった。
 「風邪ひくよ。中入ろう。」
 私はアオの手を取り部屋に導いた。アオの手は冷えきって氷の様だった。ホットミルクを作ろう。そう思ったけれど冷蔵庫の中の牛乳は賞味期限が切れていたような気がする。

   *

 僕は床に座り込んで部屋の中を見回した。
 不必要なものは置かれていないシンプルな部屋。大きなソファとテレビ、ダイニングテーブルに椅子が二脚。モノトーンを基調にしていて全体的に無機質な印象を受ける。キッチンはあまり使われている様子は無く、無駄に綺麗だった。キッチンだけでなく男の部屋にしては随分綺麗な方だと思う。本当に使っていないのかもしれない。
 隣に在る寝室も似たようなものだった。きっちりベッドメイキングされていて逆に何だか気持ち悪い。枕元には目覚まし時計と何も入っていない写真立てが置かれていた。その空白には何が有ったんだろう。
 手元の携帯電話とバイトのシフト表を引き寄せる。キィは高校には行っておらず、大検を取っていて今年大学受験をするらしい。世間でやっていけないのは流石双子と言うべきか僕と似たところがあるみたいだ。皮肉なものだ。携帯電話のメモリには知らない名前がつらつらと並んでいた。どういう関係にあるのかは教えて貰ったが所詮会ったことの無い人間のこと、いまいちぴんとこない。バイトはここ一週間は休みにしてあったようだが、明日からはほぼ毎日入っていた。一砂の言っていたカフェでのバイト。いきなり僕みたいな新人が行って良いのだろうか。バイトの仕事も教えられたが実際にやったことのないものが突然出来る筈がない。大体僕は料理作るの下手だし。
 どう考えたって僕の方はすぐにばれる。キィは僕みたいに閉じ籠った生活をしている訳じゃないし僕は演技力だって無い。僕が演技をしたのは、唯一あのときだけだ。演技力。キィの方はどうなんだろう。昔は嘘一つ到底吐けるような奴じゃ無かったけど。
 「俺だってばれて問題あるような生活送ってないし。アオがばれてもこのゲームは続行。」
 キィはそう言って僕の最後の望みと抵抗を切り捨てた。
 僕はもう一度辺りを見回す。これからのことを思うと溜息が出た。一砂はどうしているだろう、あいつに会って。今迄と変わらない生活を送っているだろうか。でももうきっと僕と一砂が会うことは無いだろう。キィがそれを許すはずが無い。そう思うと何だか何もかもどうでもいいことのように思えてくる。僕はいつだってそうやって生きてきた。過去は切り捨てて。両親が離婚したときからずっと。
 切り捨てることなんて簡単だった。初めから感情移入しなければいいのだから。どうせいつかは壊れる関係。それなら初めから感情なんて持たなければいい。相手に合わせる振りをして笑っていれば良い。心が伴わなくったって人は笑っていられる。
 再び溜息が出た。どうしてだろう。一戸建ての家に一人で住んでいたこともあるというのに、何だかこの部屋はやたらと広すぎる気がする。
 床に体を投げ出した。冷たい。じんじんとした床の音と外に降る雨の音が重なり合って聴こえてくる。最近雨が多い気がする。僕の心を反映でもしたいんだろうか。でも残念。僕はそこ迄泣きたい程悲しくなったことなんて無いんだよ。
 もういっそこの部屋すらも出て行っちゃおうかな。それでキィの居ない場所に行く。キィに見つからない場所に。良い考えじゃん。キィの手の届かない場所で、置いてくれるところでも探せば良い。簡単だ。別にキィの復讐に付き合う義理なんて無い。義務は有るだろうけど。
 ここ数日間何度もそう思った。なのに僕はまだこの部屋に居る。
 断ち切れる、過去なんて。忘れていけば何も辛いことなんて無い。
 簡単に断ち切れる。
 辛くなんか無いんだ。
 僕は立ち上がって冷蔵庫に手を伸ばした。
 中には惣菜の残り物が少しと卵が2個、マヨネーズと酒位しか入っていない。僕は酎ハイの缶を開け一気に喉に流し込んだ。
 喉の先の方が少し熱くなった。まずい。金属の味が染み込んでいる様な感じだ。思い切り気管に入り、僕は激しく咳き込んだ。薄っすらと涙がでた。シンクの上で缶を逆様にする。たぽんたぽんと音を立てて缶の中身が落ちていく。
 僕は財布と傘を持って外に出た。腹も減っている。これからどうするにしても、部屋を出るにしてもキィのゲーム≠ノ付き合うにしても、取り敢えず何かを口に入れよう。

 外は土砂降りでは無いけれど、しんしんと冷たい雨が降っていた。この薄着では少し、というかかなり寒い。でも一度出てきた以上もう一度戻るのも面倒臭い。とにかく早く食べ物を買って早く戻ろう。
 近くに在ったスーパーで適当に商品を籠に入れる。レタスにキュウリにコロッケに食パンに豆腐にアイスクリィム。寒いのに。何の脈絡も無く何も考えずに籠に入れていった。最後に牛乳を二本手に取った。だけど一本は元に戻し、結局一本だけ買うことにした。
 僕の隣では親子連れがデザートを物色していた。子供がクリームとイチゴがたっぷり挟まれたサンドイッチを指差している。ママこれが良い駄目よそっちは高いからこっちのプリンなら買ってあげるえーやだこれが食べたい。
 母親の口調は厳しいが目で笑っている。アイシテルんだろうなぁと思う。何だか子供を蹴り飛ばしたくなった。子供は駄々を捏ね続けている。結局親子は三個パックのプリンを籠に入れて、戯れ合いながら歩き去っていった。僕は取り残された子供みたいに暫くその場に立ち尽くしていた。何となく親子連れが買っていったプリンと同じ物を籠の中に入れる。
 会計を済ませて店を出ると、雨脚が強くなっていた。この雨じゃあ傘を差してたって濡れてしまうだろう。少し悩んだが弱くなりそうな気配も無い。柄のなるべく上の方を持って、買った物を濡れないように抱え足を踏み出した。
 足元でびちゃびちゃと水が跳ねる。長めのジーンズの裾は直ぐにびしょ濡れになってしまう。
 雨に濡れるのは嫌いじゃない。嫌いじゃない筈なのに気分が悪かった。雨が強過ぎるからだろうか。いや、そんな事が問題じゃ無いのは分かっている。でも敢えて考えないようにしようと思った。
 ふと何だか歩き難いことに気付く。足元を見ると薄汚れた白猫が僕に纏わりついて金色の目を向けていた。
 食べ物のニオイでもしたんだろうか。そんなに匂い易いものは買ってないつもりだけど。
 猫は雨でしぱしぱしている毛を僕に擦り付けてくる。こんなに馴れてるなんて元々飼われてたのが逃げ出したんだろうか。それとも捨てられたんだろうか。
 小学生の頃を思い出す。キィと一緒に色違いの傘を並べて歩いた帰り道。僕が青でキィが黄色。母さんが買ってくれるものは何だってこの色だ。
 神社の前にへなへなになったダンボールを見付ける。にゃあにゃあにゃあ。か細い声が断続的に響いている。僕とキィは顔を見合わせる。キィがダンボールの中の子猫を抱き上げる。小さな小さなぶち猫。キィと取り合うように抱っこしながら家路を急ぐ。
 玄関で傘をばさばさ動かして水気を切る。子猫もそれに合わせて体をぶるぶるさせる。台所でミルクをあげる。子猫はぴちゃぴちゃ音をたてて舐める。アオみたいだね、とキィが言う。僕は笑う。
 母さんが帰ってくる。ただいまー愛する息子達ー。おどけて言う。母さんが子猫に気付く。笑顔が一瞬凍る。
 どうしたの?コノ子。神社の近くで見付けたんだ。僕とキィの声がハモる。僕達は思わず顔を見合わせる。母さんは何も言わない。
 僕達は母さんに目を向ける。母さんは難しい顔をしている。僕達は何だか不安になる。あのね、コノ子がこの家に居ることは出来ないの。お父さんが許さないわ。
 母さんは言葉を選んでるみたいだ。子猫を捨てさせる為の言葉。嫌だよ、こんな雨の中捨てたら死んじゃうよ。キィが母さんに懇願している。今にも泣きそうだ。御免ねキィ、気持ちは分かるけど駄目なの。ここに居たらコノ子酷い目に遭うかもしれない。酷い目ってどんなのだろう。
 結局子供の僕達にはどうすることも出来なくて、キィはランドセルを背負った儘、元の場所に返しにいった。僕は付いていかなかった。いつも一緒なのに何でその時は一緒に行かなかったのか覚えていない。
 多分僕はもう猫なんてどうでも良くなっていたんだと思う。きっと子猫を拾うという行為そのものに憧れじみた感情を抱いていたんだろう。生き物を助けるということは何だか簡単に英雄になれることのような気がしたから。それよりも母さんが言った酷い目ってどんなのだろう、そんな事ばかり考えていた。僕の幼い頭では何も思いつかなかった。
 暫くしてキィが戻ってきた。母さんはキィを着替えさせてホットココアを作っていた。キィは何も言わずにそのホットココアを飲んだ。いつもはうるさい位のキィなのにじっと押し黙って母さんと目も合わせない。
 僕達三人が夕食を食べ終わった頃、父親が帰ってきた。今日は早かったのね。言いながら母さんが父親の前にワイングラスを置く。毒々しい色のワインが注がれる。僕はその様子をちらりと横目で見て、あれが本物の毒だったら良いのにと思う。幼稚園の頃は毒だって信じてた。母さんはアイツに少しずつ毒を盛っているんだと。
 父親がワインを一口飲んだときどこからかにゃあという声がした。部屋の中の空気が止まる。母さんがキィを見る。その大きな目をぎゅっと閉じる。キィは歯を食いしばり無表情でいようと努めている。でも顔色がほんの少し青白い。父親の目が僕とキィの方に向く。どこだ。短く言って睨み付ける。僕達は何も言えない。
 父親は痺れを切らして扉を乱暴に開けて部屋を出る。暗い廊下の、階段の下に子猫が居た。  後から聞いた話ではランドセルの中で寝ていたから蓋を開けた儘、そっとしておいたらしい。キィは子猫を捨てられなかった。
 子猫は父親に向かって甘えた目でにゃあと鳴いた。痩せたぶち猫の青い目は、きらきらと嬉しそうに輝いている。父親は子猫の首筋を掴むと直ぐに居間に戻り、窓を開けた。そこから庭に向かって強い力で投げ付ける。嫌な音がした。子猫は丁度庭にあった石に当たって血を流す。僕とキィと母さんがスリッパの儘駆け寄る。子猫を抱き上げた母さんが静かに首を横に振る。子猫の首がぐにゃりと有り得ない方向に曲がっているのが瞼に焼き付く。
 でもそれが母さんの言った酷い目なのかどうかは僕には分からなかった。
 キィは子猫を見つめて涙を堪えている。僕は父親に目を向ける。父親はダイニングテーブルに座りワイングラスを傾けている。僕達の方は欠片も見ていない。

 ぎゃっと足元で声がした。ふっと我に返った。僕は無意識に足に纏わり付く白猫の腹を蹴り上げていた。猫は素早く体勢を立て直すと一目散に逃げていった。僕のことを振り返ることも無く。どうせ施しを与えてやるつもりは無い。そんな余裕、僕には無い。そういうのは金銭的にも精神的にも余裕の有る奴がすれば良い。下手に期待を持たせる方がよっぽど劣悪だ。
 スーパーの袋を抱え直して再び歩き出す。猫の毛がこびりついた靴がちらちらと視界に入ってくる。僕もあの父親の血を引いてるんだな、何となくそう思った。


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