MILK3



  *

 今日は授業が午前中だけだった為、昼からはバイトだった。家賃は親に払って貰っているし、仕送りも十分にして貰っているとはいえ、二人分の生活費はバカにならない。どんなに辛くたって働かなきゃ世の中生きていけない。親元を離れたんだから其れぐらいの覚悟はしてる。
 アオは私よりも働くのが苦手だ。と言うより社会の中に埋没するのが苦手だ。
 自分を出さない、ということを知らないからいつもトラブルを起こす。でも自分を押し殺し過ぎる私にとって、其れは羨ましい点なのだけど。
 アオは自分が生活費を出していないことを気にしているようだったが私はさして気に留めていなかった。確かに生活費を稼ぐのは辛い。でもアオが家で待っていると思うと頑張れる。アオのお腹を空かせない為には働かなくちゃと思う。何だかこう言うとペットみたいだけど。
 でも似たようなものかも知れない。アオはよっぽどのことが無い限り私を傷付けようとはしないから。怒る事も、顔を顰める事すら殆どしない。だから私も安心して一緒に暮らせるのかも知れない。私は打たれ弱いから少しきついことを言われただけで立っていられなくなる。生きていられないような気分になる。アオは其れを分かっているから、其の上私が生活費を払っているという負い目も有るのか私の気に触ることはしない様にしてる。
 もっと気楽にしてもいいのに、そう思う位。
 でも実際アオが自分を全て出したときに私は受け入れることが出来るんだろうか。自信が無い。私はずるい人間だ。アオはそんな私の気持ちに気付いているのかもしれない。
 嗚呼もう、少し暇だと直ぐそんな考えを巡らして仕舞う。今は平日の昼間。それも学校や会社が終わる時間には未だ早く、バイト先の本屋に客の姿は無い。もう一時間もすれば近くの高校の生徒でごった返すだろうけど。
 私はすることも無くレジの所に置かれた椅子に座り、中世の基督教教会についての専門書を読むでもなく、只ぺらぺらと頁を繰っていた。もう一人のアルバイトの主婦、安藤さんも暇そうに欠伸をしながら何度も何度も雑誌を並べ替えていた。私も釣られて欠伸をする。
 日差しは大分低くなり店の中にも太陽の光が差し込んできて暖房がいらない位だ。少し頭がくらくらする。小さな文字を目で追っていると余計に。
 そのとき店の扉が開く気配がした。
 「いらっしゃいませ。」
 私はほぼ条件反射で挨拶をする。でも入ってきたのはアオだった。安藤さんの方に目をやると何だか楽しそうにアオと私を見比べていた。安藤さんはアオの顔を知っているから一寸だけ気まずい気分になる。
 アオは私の前を何も言わず通り過ぎ、男性向けのファッション雑誌や車の雑誌の並ぶ棚の前で立ち読みを始めた。私は不思議に思い、少し首を傾けた。すかさず安藤さんが近寄ってきて、私に耳打ちする。
 「どうしたの?喧嘩でもした?いつもなら真っ先に一砂ちゃんのところに寄っていくのに。」
 そう、いつもなら何の用も無くても、店に入ったかと思うと私の元に駆け寄ってくる。本を見るにしたって買うにしたって其れからだ。今迄アオが其れ以外の行動パターンを取ったことは無い。
 私は安藤さんに曖昧な笑顔を返すと恐る恐るアオに近付いた。
 居候という立場が有るからだろう、いつも私の機嫌を窺う様にしているアオが私を無視するのは考えにくかった。…多分。其れ以前に無視される理由も無い。三日前に大きな喧嘩はしたがそれ以降は穏やかな日日だった。
 「アオ?何かあった?私に用事?」
 そう言って話し掛けるとアオはゆっくりと此方を向いた。其の目は大きく見開かれていた。まるで奇異な物でも見ているかの様だった。
 「…アオ?」
 私は不安に駆られ、アオの名前を問いかける様に呟く。アオは其の声に一瞬肩をびくりと震わせ、私の頭から足先迄、上から下へ視線を滑らせた。
 足先迄到達した視線は何を考えているのか其の後も少しの間伏せられた儘で、私は一層不安感を煽られたが何かを聞き返すことも出来なかった。伸びかけの前髪の間からちらちらと覗く目は笑っている様にも怒っている様にも見えた。
 私は其の目を見ていることが出来なくて、何処に目を向けて良いか分からずにアオの着ている黒と灰色のボーダーのセーターの網目を眺めた。こんな服、アオ持ってたっけ?記憶に無い。
 不意にアオが顔を上げる。其の表情はいつもの通りの笑顔で、私は心の中で胸を撫で下ろした。
 「何でもないよ。一寸驚かせてみたかっただけ。そんなに心配そうな顔しないでよ。」
 アオは私の顔に手を伸ばし、頬を軽く抓って笑ってみせた。
 「一砂ちゃん、少し早いけど休憩行って来て良いよ。どうせ暇なんだし。」
 私の背後から安藤さんが大きめの声で行った。私は安藤さんに軽く御辞儀をして、アオを待たせて事務所に上着と鞄を取りに行った。他に誰も居ない店内にはアオに明るく話し掛ける安藤さんの声が響いていた。
 事務所で店のエプロンを取りハンガーに掛ける。ロッカーの中から鞄を取り出して携帯をチェックする。携帯には一件着信が有った。三十分程前にアオからだ。此処に来ることを知らせようとしたのだろうか。さして気に留めず携帯を鞄の中に戻す。用が有るのなら今言うだろう。
 店に戻るとアオは安藤さんと談笑していた。アオは協調性は全く無いが社交性は存分に有る。誰とでも直ぐに打ち解ける。本当に私と正反対。私は楽しそうに話すアオと安藤さんを見て、置いていかれた気分になる。誰にかは分からないけれど。
 店に流れるポップスと共に流されてしまいそう。ゆらゆらゆらゆら。其処に漂っているだけの存在。ゆらゆらゆら。
 「アオ。」
 私が名前を呼ぶとアオは大股でジャンプし乍此方に寄ってきた。
 「じゃあ安藤さん。休憩行ってきます。」
 「はぁい。ごゆっくりぃ。」
 安藤さんは店を出て行く私達に向かって、楽しそうに手を振った。
 私達は店の在る商店街を抜け、其の先の小さな公園に行った。公園の前の自販機でパックのジュースを買って公園のベンチでゆったりする。其れが私のバイト時の休憩の過ごし方。
 とは言ってもアオと休日を過ごすときも大して変わらない。何しろお金が余り無い私達は、そうそうお洒落な場所なんて行けやしない。
 私は自販機でオレンジジュースと牛乳を一本ずつ買って、牛乳の方をアオに手渡した。アオは「ありがと。」と短く言って牛乳を受け取った。伸びるストローをパックに挿し、口は付けぬ儘アオはしゃがみ込んで目の前の風景を眺めた。
 公園では未だ保育園に上がらない位の男の子が、砂場で一人で遊んでいた。大きな砂山に、鮮やかな青いスコップでトンネルを掘っている。母親の姿は見当たらなかった。
 もう少しでトンネルが貫通、というところで砂山は崩れた。しっかり固めていなかったのだろう。男の子は目に涙を浮かべ乍、黄色いバケツを持って水場に走っていった。水を汲んで戻ってくると、泥だらけの腕で今にも零れそうだった涙を拭い、今度はしっかりと水で固め乍もう一度砂山を作る。
 出来上がった砂山はさっきのものより大分大きかった。其れでも男の子は無事トンネルを開通させた。そして調子が出てきたのか、隣に更に大きい砂山を作り出した。
 「あの子、一人ぼっちなのかな。」
 そう言うアオの横顔からは表情が読み取れなかった。
 「この位の時間はいつも一人で遊んでるの。もう五分もすればお母さんが迎えに来ると思うんだけど。」
 言っている側から私と大して年齢の変わらない女の人が公園に入って来、男の子を抱き上げた。男の子は頻りに砂山のトンネルについて自慢をしていた。砂だらけの顔は嬉しそうに歪んでいた。男の子の顔に付いた泥を手で掃っている女の人の顔も嬉しそうだった。其のときアオが俯いていることに、私は気付かなかった。
 「ねえ一砂。今日バイトは何時迄?」
 「え?七時迄だけど。どうして?」
 「何でもないよ。只聞いただけ。七時じゃあもう暗いから気を付けてね。」
 アオは言って立ち上がるとくるりと私に背を向けた。
 「一砂、仕事頑張ってね。僕此れから用事が有るんだ。」
 「用事?遅くなるの?」
 アオの眉が一瞬ぴくりと動いた。言葉を選んでいるかのように口を小さく閉開させている。
 「そんなに遅くはならないと思うよ。大した用事でもないし。それじゃあ僕行くね。」
 アオは牛乳のパックを片手に、跳ねる様に走っていった。何の用事か聞く暇も無かった。何なんだろう。アオが用事なんて珍しい。気には為ったが追いかけるまでのことでもない。ボーダーのセーターの背中を見送って、私は飲み干したオレンジジュースのパックをゴミ箱に捨てると本屋に戻った。

 安藤さんに「らぶらぶだねえ。」と冷やかされ乍も無事にバイトを終え、帰途に着いた。商店街を歩いているときに、急に未だコップを買っていないことを思い出した。私は寂びれた商店街を引き返し、少し行った所に在る雑貨屋に足を向けた。
 商店街の一番駅側に在る其の雑貨屋は最近出来たもので、他よりはモダンな感じで若者志向な店だった。でも如何せんこんな場所じゃ大した売り上げも望めないだろう。
 この店はオープン当日に数少ない大学の友人に連れて来られた。最初は余り乗り気じゃ無かったが、来てみると雑貨屋なのに少し照明を落としていて沈み込む様な安心感が有って、妙に落ち着いた。いつも私を色色な所に連れ回そうとする彼女には少し辟易していたが、其の時は感謝した。
 内開きの木の扉を開けると暖色系の空間が広がっている。ワインレッドの絨毯の上にオークの棚が並べられ、其の上に商品が陳列してある。店の中央には円卓の上に季節的な商品が置かれており、未だ少し早いクリスマスが其処に有った。緑色のツリー、白いツリー、ワイヤーのツリー、フェルトのツリー、様々なクリスマスツリーが綿の雪を被っている。其の前では二人連れの女子高生が硝子で出来た小さなクリスマスツリーを手に取り、きゃあきゃあと笑い乍話していた。
 私は何故か後ろめたい気持ちに為って慌てて女子高生から視線を外す。私はあんな風に笑えない。だから、羨ましい。
 足早に食器類の並ぶ壁際へと向かった。種類は少ないが変わったコップが幾つか並んでいる。どれも見ているだけで吸い込まれそうに綺麗。私は悩んだが、結局最初に目についた真っ青なコップを手に取った。深い深い海の色をしていて口の部分が少し広がっている。矢っ張りアオは名前の通り青が似合う。
 コップは何だか綺麗過ぎて私なんかが持っていたらいけない様な気がした。私の手の平は、屹度此のコップを黒いイロに侵食していって仕舞う。
 ラッピングをして貰いそうっとバックの中に入れて急いで家に帰った。
 店を出る時、女子高生の女の子達は硝子のクリスマスツリーを買うか買わないかで未だ悩んでいた。  走り乍も為るべくコップに振動が伝わらないように気を使い、暑くなど無いのに汗を掻いた。割ってしまったらアオの笑顔が崩れてしまうような、そんな気がした。早くアオに渡したい。私の手の中に有ることで此のコップが汚れて仕舞わない様に。
 アパートに着いた頃には何だかくたくただった。私は階段の前で立ち止まり、深呼吸をした。夕方の冷えた空気が肺の内側をちくちくと刺してくる。
 もう直ぐ冬が来る。
 少し落ち着くと、私は手摺りを掴んで階段を上った。錆の付いた手摺りは私の手を赤くしたが気にしない。部屋の前で軽く手を掃い鍵を開けた。かちり、と妙にくっきりと其の音は夕闇の中に響いた。
 部屋は暗かった。一瞬アオは未だ帰って来てないのだろうかと思った。
 しかしそうではなくアオは暗闇の中、パソコンデスクに座っていた。パソコンの電源は点いておらず、画面にはただ漆黒の闇が広がっているだけだった。
 アオは頭を抱えて虚空を眺めている。何だか電気を点けるのが憚られる雰囲気だ。
私は暫くアオの顔を眺めた。でも見詰めれば見詰める程アオが違う場所に居る様で怖くなった。
 恐怖はじわじわと私の心臓に染み込んでくる。容赦無く。
 アオが居なくなったら私は一人に為ってしまう。一人は楽だ。何も考えないで良い。でも同時に何よりも怖い。痛い。淋しさで体中が引き千切られる。
 矛盾した感情が頭の中でうねる。私は其れに耐え切れなくなって、思い切り電気のスイッチを入れた。
 アオは一瞬、肩をびくりと震わせ、私の方を向いた。何かを言おうとしたのか口をぱくぱくさせて、でも何も言わずにきゅっと唇を引き結び立ち上がった。
 「お帰り、一砂。ぼうっとしてて気付かなかったよ。」
 そう言って浮かべたアオの笑みは、いつもの無邪気なものとは何処か違い、何だか不安気だった。如何したんだろう。何かあったんだろうか。そう思ったが私は「ただいま。」と笑顔を返すことしか出来なかった。
 アオはゆっくりと私の方に寄って来て、私の手を取った。
 「手ぇ、汚れてる。階段の手摺り触ったでしょ。」
 私の手に付いた錆を軽く掃い、自分の紺色のパーカーで拭う。…紺色のパーカー?昼間はボーダーのセーターだったのに着替えたんだろうか。
 アオは冷蔵庫から牛乳を取り出し一リットルパックの儘、口を付けて飲んだ。私はコップを渡すタイミングを逃し、コップが入った儘のバッグをそうっと床に下ろした。
 「ご飯、作らなきゃね。何が良い?」
   アオが言う。
 「グラタン…。」
 私の答えにアオは満足そうに、切なそうに笑んだ。

   * 

 メールの答え。
 それは最悪の答えだった。
 一砂が見た僕のドッペルゲンガーは、間違いなくあいつだ。どう考えたってそれしか考えられない。
 ただの偶然だろう。そうは思う。だけど偶然で終わることなのかどうか、判断がつかない。あいつが一砂の存在にさえ気が付かなければ偶然で終わることが出来る。一砂はもうあのカフェに行かないだろうし、あいつの生活圏にこの辺りが入っているとも思えない。あのカフェの在る所からここまでは距離がある。
 再び偶然が重なることは考えにくい。
 それに向こうは一砂の顔を見たかどうかすら分からない。
 心配するだけ馬鹿だ。
だけど偶然が重なったら?
 パソコンデスクの椅子に凭れ掛かり、僕は溜息をついた。
 自分がこんなに心配性だとは思わなかった。もっともあいつが絡んだことじゃなければ、ここまで悩むことも無かっただろうが。
 あいつは多分僕を恨んでいる。僕の幸せな姿を見たら、何を差し置いても邪魔をするだろう程に。
 考えるだけで気が滅入る。忘れよう。あいつと僕の人生はもうとっくに分岐した。関わる必要性なんてどこにも無い。
 僕は立ち上がり大きく伸びをした。
 気分転換に買い物でも行ってこよう。割れてしまったコップの代わりのものでも探してこよう。あれから何だかコップで牛乳を飲む気になれず、ずっとパックの儘飲んでいたのだがやっぱりそれじゃ味気ない。コップになみなみと注がれた牛乳をもう何日も見ていない。
 財布と家の鍵だけ掴み、玄関に向かった。靴箱からまだあまり履いてないスニーカーを取り出して足を入れる。靴の内側が軽く僕の足を締め付けた。
 上着もいるだろうか。最近は大分冷え込んできた。
 まあ外に出て寒かったら取りに戻れば良いか。寒いのは嫌いじゃない。暖かい方が断然好きだけど。  そんなことを考えながら扉を開けた。

 ぞくり。

 全身を寒気が襲った。

 やっぱり上着が。
 違う。
 天気予報でも今日は風が強いって。
 関係ない。
 ああ空も曇ってるや。これじゃあ太陽の光が。
 だから、寒いのはそんな、理由じゃなくて。
 一砂はちゃんとコート持ってったかな。
 現実逃避。
 ばらばらと。
 理解出来ない。
 考えが集積しては、散っていく。
 支離滅裂。
 取り敢えず息を。
 吸おう。
 冷たい。
 冬の痛み。
 現実と言う残酷が、全身を鞭打つ。
 掴まるところも、見付からず。
   ただ残酷は残酷に。
 押し寄せて押し寄せて押し寄せる。
 僕はゆっくりと瞬きをして正面を見据えた。
 「久し振り、アオ。」
 ドッペルゲンガーが笑った。

 僕の両親は僕が小学生の頃離婚した。よくある話だ。父親が不倫して破局。
 元々父親は余り家に居ない人で遊んで貰った記憶など皆無だった。いつも夕食時に眉間に皺を寄せた父親を見てびくびくしていた。僕がコップをテーブルに置いた儘口を付けると、お前がきちんと躾をしないからだ、と母さんに箸を投げつけた。
 僕は父親の前で牛乳を飲まないようにした。母さんが怒られるなら我慢しようと思った。
 父親はよく僕を叱ったし、時には殴ることもあった。虐待と言う程酷いものではなかったけれど。だから僕は何か粗相をすると、押入れの布団の中に隠れて父親の機嫌がよくなるのを待った。
 両親が離婚すると聞いたとき、僕は別にショックなんて受けなかった。むしろ何で母さんはあんな奴と一緒にいるんだろうと思っていたから、何だかやっと母さんと僕の意見が一致したみたいで少し嬉しくなった。
 僕は母さんと一緒に行った。母さんは二人とも連れて行こうとしたけど、この家の跡取りがいなくなるのは困る、というよく理解出来ない理由でキィは父親の元に残された。
 キィ。
 僕の。
 双子の片割れ。

 「キィ…。」
 僕の呟きにキィはにっこりと笑み、立ち尽くしている僕の横をすり抜けて部屋の中に入った。
 靴を脱ぎ、勝手に部屋の奥へ歩いていく。僕は我に返り、慌てて靴を脱いでキィの後を追った。
 キィは冷蔵庫を開けて、中を物色していた。
   僕が追ってきたのを視界に入れると、冷蔵庫の中から牛乳パックを取り出して僕に掲げてみせた。
 「相変わらずだね、アオ。冷蔵庫の中牛乳ばっかりだ。」
 「どうして…。」
 訊きたい事が沢山有り過ぎて何を言えばいいのか分からない。
 どうしてここにいるのか。
 どうしてここに来たのか。
 どうしてここが分かったのか。
 どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
 頭に浮かぶばかりで、答えなんて出る訳がない。
 「何しに来たんだよ…っ。」
 「冷たいなぁ。生き別れた双子のカンドーの再会じゃん?でもホントに何年振りだろうね。アオは母さんの葬式にも呼んでくれなかったからねぇ。」
 キィは牛乳をしまうとベッドに腰掛けた。ポケットから煙草を取り出しジッポで火を付ける。ジッポの蓋を閉めるカキンッという音がやけに耳についた。
 「ここ灰皿無いんだけど。」
 キィの方を向かずにそう言うと、キィは冷蔵庫の直ぐ横に置いてあった危険物入れの中から割れたコップの底の部分を取り出し、水を入れて底に灰を落とした。青い気泡が黒い灰で薄汚れた。
 「このコップ割れちゃったんだ。母さんにお揃いで買って貰ったのに。」
 言って割れたコップの縁を指でなぞる。コップの縁は、ざっくりと肌を傷付けてしまいそうな程ぎらぎらと輝いていた。
 本当に何をしに来たんだろう。早く帰って欲しい。
 「そうそう、アオにこれあげるよ。」
 キィは煙草を銜えた儘器用に喋り、持っていたバッグの中から小さな牛乳のパックを取り出した。何故か既にストローの挿された跡があり、セロハンテープで塞がれていた。
 「あー、別に飲みかけとかじゃないよ。俺牛乳嫌いだし。」
 僕の視線に気付いたのかキィが言う。
 「…じゃあ何でセロハンテープなわけ?」
 「だって一回ストロー挿しちゃったから。」
 「何で飲みもしないのにストロー挿すんだよ。」
 「あーもぉ、アオはキツイなぁ。一砂にもそうなワケ?」
 一砂。
 かずな。
 カズナ。
 今確かに。
 そう言った?
 何でこいつが一砂の名前を知っている?
 僕はキィの煙草を思い切り掴み取った。熱い。痛い。でもそんなことはどうだっていい。
 全身が怒りで震えた。何に対して怒っているのかは分からない。ただ頭に血が上った。ただ腹腸が煮え繰り返った。今にもキィに殴りかかってしまいそうだった。
 キィはそんな僕を気にする様子も無く、肺に溜まった煙を吐き出すと又ポケットから煙草を取り出し吸い始める。
 「何でてめぇが一砂のこと知ってんだよっ!」
 僕は耐え切れずキィの胸倉に掴みかかった。
 「わぉ、凄いねー。一砂の名前出しただけでその反応?」
 胸倉を掴まれているにも関わらずキィは飄々と言う。
 「それにしても高校辞めて女のヒモとは堕ちたもんだねぇ。優等生の面影はどこへやら。」
 僕はキィを突き飛ばした。キィは壁にぶつかり小さく呻き声を上げた。
 落ち着け。落ち着け。落ち着け。
 この儘じゃこいつのペースだ。
 必死で呼吸を整える。
 キィはゆらりと立ち上がり僕を見据えた。その目は僕が思い通りの反応を示したことが嬉しいのか、三日月の様に細まっていた。煙草を掴んだ手の平が、じりじりと、痛い。
 僕は手の平の痛みを消し去る為に固く拳を作った。しかし思いに反して痛みは増した。
 割れたコップに落とされた灰は、相変わらずゆらゆらと揺れて、青いコップを汚していく。何に対してかは解らないけれど、何故か無性に悔しかった。
 「この牛乳さぁ、一砂がくれたんだよ。俺とアオを間違えて。」
 キィが殴られた拍子に落ちた煙草を拾いながら言う。少し床が焦げている。
 「…いつ…?」
 「昨日。駅前の商店街にある本屋で会ってさ。向こうが俺のことアオなんて呼ぶから、ちょっと後を付けさせて貰ったよ。アオの行方について何か手掛かりが有るかも知れないと思ってね。まさか同棲してるとは思わなかったけど。」
 僕がメールで訊いた事。それはキィの住んでいる場所だった。キィの行動範囲と一砂の行動範囲が合わさることは無いか不安だった。でもメールの返信からしてその可能性は低いと思っていた。
 キィの住んでいる場所はここからは少し離れた街の方のマンションだった。一砂のバイトする本屋より大きな本屋だって周りに在るだろう。なのにどうして?こんな家ぐらいしか無いような場所にどうしてキィが来て、どうして一砂のいる本屋に立ち寄らなければならない?
 キィはゆっくりと煙を吐き出している。空気が濁って見える。
 「ほんとに…何の用だよ。」
 僕は為るべくキィの方に目を向けないで言った。
 「ただ会いに来ただけ…ってのじゃ信じて貰えないか、やっぱり。」
 答えるキィの声は無駄に楽しそうだった。
 「ねえアオ、今幸せ?」
 キィの問いに僕は思わず顔を上げる。キィは笑っている。笑っているのに何を考えているのか分からない。
 「それってずるいよね。嫌なことは俺に押し付けたくせに、自分だけ女のところで幸せに暮らしてるなんて卑怯だよね。」
 じわじわと彼の口から彼の目から、嫌悪感が溢れ出している。でもまだキィは笑んでいる。
 「だから少しの間交換しようよ。俺とお前の生活。」
 交換する?
 意味が分からない。
 理解出来ない。
 違う。本当は分かっている。理解している。
分かりたくないだけ。理解したくないだけ。
 キィが僕に何を言いたいのか、本当は僕が一番分かっている。
 手が小刻みに震えていた。キィに気付かれないようその手を後ろへ回す。僕は平静を保とうとした、少なくとも表向きは。でもきっと僕の動揺をキィは見抜いていたと思う。遠くの方で救急車のサイレンが鳴っているのがやけに耳に付く。
 「何の意味があってそんなことしなきゃいけないんだ。」
 「ゲームだよ。ただのゲーム。」
  キィは笑っている。嫌悪感が溢れ出している。僕の手は震えている。
 「…嫌だ…って言ったら?」
 救急車の音が遠ざかっていき、聞こえなくなる。静寂。キィはゆっくりと口を開く。
 「想像の通りだよ。」
 昔から僕の考えていることはいつだってキィにはお見通しだった。キィの考えていることは手に取るように分かった。僕が言い出しにくいことをキィが察して代弁してくれることもよく有った。キィが出来ないことを僕がキィの振りをしてやったこともよく有った。僕等は誰よりもお互いを信頼していた。でも今は。
 今はきっと、誰よりもキィの存在を否定したい。
 こんな天気じゃ窓から光が差し込まない。何だか爪先が少し悴んでるみたいだ。
 「少しの…間って…」
 「うーん、一ヶ月位?一砂にバレたらその時点でアオの勝ち。バレなかったら俺の勝ち。負けた方が勝った方にいちばん大事なモノを差し出す。なぁアオ、お前には断る権利なんて無いだろ?準備が出来たら俺のとこに来いよ。いつだって待ってるからさ。」
 キィはパソコンの横のメモに何かを書き込んでいる。
 「それじゃぁ、また。」
 僕が振り返らないのを気にする様子も無くキィは玄関の方へ歩いていった。がしゃん、と大きな音をたてて扉が閉まる。五月蝿い。
 何かを壊したくて仕様が無い。世界の全ての音が耳障りだった。見える全ての物が目障りだった。
 僕は乱暴に灰皿に使われた割れたコップを掴むと、中の水を名前も知らない植物の鉢植えにぶちまけた。空になったコップには煙草の灰がしっかりこびりついている。汚れたコップを持っていたくなくて窓にコップを投げつけた。コップは粉々になった。窓は少し灰で汚れただけだった。
 部屋の真ん中に蹲る。
 何も考えたくない。
くそう。両親の離婚の時、これで幸せになれると思った僕の思いはどんどん裏切られていく。たった一度だけ、キィを騙しただけなのに。
 たった一度のツケが、大きすぎる。
 僕はゆっくり立ち上がり、さっきキィが書いていたメモを覘いた。そこには住所が書かれていた。どこかで見覚えがある住所。彼からのメールに書かれていた住所。キィの住んでいるトコロ。
 メモを破り捨てたいと思った。でも出来なかった。
 メモの左上の方には一砂が暇なときによく落書きしているウサギの姿があった。耳の垂れたウサギ。主原料・青いボールペン。
 僕は再び蹲る。折り返してきたのだろうか。またどこかから救急車のサイレンが聞こえる。
 救急車に乗っている人は助かるだろうか。
 何か悪いことを一つでもしていたら無理かもしれないよ。だって。
 神様はちゃんと見てる。
 

 「もぉやだー。急に降ってくるんだもの。びしょ濡れ。」
 一砂が息を切らせて帰ってきた。その言葉を聞き外を見る。初めて雨が降っていることに気付いたベランダのトタンがたんたんと音をたてている。
 一砂はやたらと大荷物だ。白いトートバッグがぱんぱんに膨れている。ゼミ用の資料探しに図書館でも行っていたんだろう。一砂の読む本は僕にはよく分からない。日本語かどうかすら理解出来ないときもある。
 僕は一砂にバスタオルを渡し、代わりに荷物を受け取った。トートバックの持ち手が手の平にずしりと食い込む。一体何冊本が入っているのだろう。一応男の僕でもこれを持ち歩くのはキツイ。これを持って雨の中を走ってきたのかと思うとちょっと恐れ入る。
 「中の本濡れてない?大丈夫?」
 「心配ならコンビニで傘でも買えばいいのに。」
 「そんなのお金の無駄遣いじゃないー。」
 一砂はタオルで髪の毛を拭きながら、少し脹れてみせる。
 僕は一砂の顔を直視出来なかった。
 「早く着替えないと風邪引くよ。僕はホットココアでも作るから。」
 一砂に背を向けキッチンに立つ。一砂は「ん」と小さく返事をしてバスルームに入っていった。  少ししてバスルームから水音が聞こえてくる。ぱたぱたという水の音がバスルームからと窓からと、二方向から流れてくる。ステレオ状態。
 僕は牛乳の入った鍋を火にかけ、小さな溜息を吐いた。
 一砂の顔を見るとキィの言葉が浮かんできた。
お前には断る権利なんてないだろう。
 ぐるぐるでろでろ。
 ワケの分からない色になって心の中を蠢いている。忘れたいのに忘れようとすればする程、一砂の顔がその色で塗りたくられる。
 鍋の中の牛乳がぽこぽこ泡を立てている。僕は少しの間それを見つめていた。どうする?キィの言う通りに生活を入れ替える? 
 でもバレてもバレなくても、僕に一砂との生活は戻ってこない。キィは僕にこの暮らしを返すつもりなんて毛頭無い。確信できる。以前僕がそうだったから。
 もし僕が嫌だと言ったらキィはどうするだろう。想像通り、キィはそう言った。僕の振りをして一砂を傷付けるつもりだろうか。
 ぽこぽこぽこぽこ。泡がだんだん大きくなっていく。
 キィはどうやって一砂を傷付けるつもりだろう。肉体的に?それとも精神的に?どちらにしても一砂の中にはきっと僕への憎しみが残る。
 同じじゃないか。
 キィの言う通り僕には断る権利なんて無い。キィが僕を見付けた時点で僕の未来は見えている。
 牛乳は鍋から吹き零れそうになっていた。僕はのろのろと火を弱め、鍋にココアパウダーをたっぷり入れた。その途端に泡は沈んで消えた。
 パウダーがしっかり溶けたところで火を止めて、ココアを二つのマグカップに移す。ココアから出る湯気がやけに目に染みる。ただの湯気の筈なのに。
 僕はマグカップをテーブルに運び、テーブルに突っ伏した。視界の端でココアの表面が少し揺れている。一砂はまだバスルームから出てこない。早くしないとココアが冷めてしまう。僕は猫舌だから丁度良いけれど。
 手持ち無沙汰な僕はパソコンの横からメモ帳を引き寄せる。一番上にはキィの住所と一砂のウサギが一緒に描かれている。僕は近くのボールペンを引き寄せ、一砂の描いたウサギを真似して描いてみた。何だか全然可愛くない。イライラしてきてボールペンを放り投げ腕に顔を埋めた。
 「あー、アオありがとぉ。」
 突然頭上から一砂の声が降り注いだ。いつの間にバスルームから出て来たのだろう。気が付かなかった。
 彼女は突っ伏している僕に覆いかぶさる様にテーブルに手をつき、並んで置かれたマグカップの片方を手に取る。体温が上がっていて少し暑いのか、パジャマの袖を肘まで捲くっていて左腕の傷跡が露わになっていた。
 僕だったら即火傷するだろうココアを一砂は躊躇いも無く口にする。ココアと石鹸の香りがほんのりと混ざり合い僕の鼻に届く。
 キィに奪われるぐらいなら。
 頭を過ぎる声。
 傷跡。石鹸。ココアを飲む唇。濡れた髪。マグを持つ指。ペディキュアが塗られた足の爪。
 どうせもうすぐキィに奪われる。それならいっそ。
 壊してしまおうか。
 「おいし。」
 小さく一砂が呟く。考えていた全ての思いが吹っ飛んだ。思わず僕は一砂を抱き締めた。
 一砂は突然のことに驚き、マグを落としそうになった。でも寸でのところで受け止めたようだ。
 一砂は不思議そうにしていたが何も言わなかった。何も言わず僕の頭に手を置いた。


back

next



小説トップモドルモドル