MILK2



   * 

 最初に感じたのは緩やかに流れるドビュッシーのBGM。そう広くは無い店内なのにテーブルとテーブルの間隔が広く取られている為、座席数が少ない。白く丸いテーブルの上にはキャラメルの色をした一輪挿しが置いてあり小さな花が飾られている。カウンターには紅茶のポットと硝子の容器に入った色とりどりの飴玉。不思議の国のアリスのようなイメージだ。
 客はカウンターの近くの席に、薄手のコートを羽織った男の人が一人だけだった。
 カウンターの中に居た女の子が私ににっこりと笑い掛ける。
 「お好きな席へどうぞ。」
 そう言って細長いコップに正方形の氷を三個入れる。私が一番奥の席に着くと、彼女は其のコップに水を入れて運んできた。コップとテーブルが触れた瞬間、水の中の氷がカロンと音をたてた。
 「あれ、御客様。手、大丈夫ですか?」
 突然言われ自分の手を見る。右手の親指の付け根辺りから血が流れていた。アオに殴られて転んだ時に切ったのだろうか。それにしても今迄気が付かないなんて。
 私が傷を見つめている間に、ウェイトレスの女の子がティッシュとバンドエイドを持ってきて呉れた。礼を言い、血を拭き取ってバンドエイドを貼る。何だか今更痛くなってきた。
 女の子がティッシュとバンドエイドのゴミを持って行こうとする序でにミルクティーを注文する。畏まりました、と言ってウェイトレスは小走りでカウンターに戻っていく。短いウェーブヘアーと黒いプリーツスカートがふわふわと揺れていた。
 間も無くミルクティーが運ばれてくる。私は其れをゆっくり喉へ流し込む。砂糖は入れない。アオは珈琲にも紅茶にも砂糖をたっぷり入れるが、私は其れを邪道だと思う。苦いところに本来の美味しさが有るのだ。まあ本人の自由なんだから強要することではないけれど。
 紅茶の種類はよく知らないが此れはクセが無くて美味しい。ほんのりとハーブみたいな香りがする。  飲み乍アオにどんなコップを買っていくか考えた。私が割ってしまったコップは一寸変わった感じをしていた。硝子の中にシャボン玉が飛んでいるみたいに様々な大きさの気泡が有った。グラデーションになっていて下にいくほど青み懸かっている。アオの名前にぴったりだと思った。
 同じ物を探したいけど多分無理だろう。
 あのコップはオカアサンから貰ったものみたい。アオはオトウサンの話は滅多にしないけれどオカアサンの話はよくする。私は時々オカアサンに嫉妬してしまう。
 考えているうちに物で仲直りしようという考え自体、浅ましい気がしてきた。でも他に如何すれば良いのか分からない。私は喧嘩することなんて殆ど無いのだ。アオは勿論、友達間でも。
 更に言えば友達と喧嘩した記憶も少ないが、仲直りした記憶はもっと少ない。喧嘩すると、もう此の人とは会いたくない、と考えてしまう為、仲直りしようという気持ちになれないのだ。逃げだとは分かっていても中中人間の負の感情に付いていけない。向き合えない。体の中の水分がじわじわと無くなっていくようで。
 仲直りをしなきゃと思うと途方に暮れてくる。黄色い闇に包まれて独りぼっちになる気分。
 関係を絶ってしまえば早い。
 全身が重い。
 何だか全てが面倒臭い。
 はっと自分の考えていることに気付き慌てて首を振った。いけない。アオと離れたくなんてないのに。  矢っ張りコップを買っていこう。浅ましかろうと何だろうと、私は自分に出来る精一杯のことをすればいい。心の中で頷いて、ミルクティーを飲み干す。
 私は会計をしようと伝票を持ってレジへ向かった。先程の女の子がレジの前に立つ。
 「四百七十三円になります。」
 言われて財布からお金を取り出そうとしていると店の奥の方から声がした。
 「朝子。」
 私は其の声に肌が粟立った。
 「一寸待って。すぐ行くから。」
 目の前の女の子が答える。失礼しました、と言って私の方に向き直る。
 「御客様…?」
 よっぽど私の顔が引き攣っていたのだろう。朝子と呼ばれた彼女は私の顔を覗き込んできた。
 怖い訳じゃない。只其れが在ってはならないものであるかのような、そんな気持ちに駆られた。
 如何してそんな気持ちになるのか全く分からなかった。何処かで聞いたことが有る声のような気もするし、矢っ張り聞いたことも無い声のような気もする。
 兎に角急いで代金を払って其の場を早早に後にしようと思った。
 「顔色悪いですよ。少し休んでいかれた方が…」
 親切にもそう言って呉れたが私は断って店の扉を開けた。
 閉めようとして振り向いた瞬間、店の奥から出てくる人影が目に映る。私は絶句した。
 扉の取っ手がするりと私の手から離れ、扉が閉まる。目の前にはマリア様が居た。
 如何いうことか分からなかった。自分が如何すべきかも分からなかった。只確かめる気にはなれなかった。
 其の人影は、其のオトコノコは、アオの顔をしていた。
 

 他人の空似だ。気にすることは無い。此の世界にそっくりな人間なんて幾らでも居る。六十億も人は居るんだ。直ぐ近くに似ている人が居たっておかしくなんか無い。全然無い。
 でも如何しても気になった。
 一体彼は誰なのか。如何して自分はあんな気分になったのか。
 気にするな。自分に言い聞かせる。只のそっくりな人なんだ。気にするな。
 そっくり?本当に?アレはそっくりと言うよりも、そのもの≠セったような。
 早くアオに会いたい。頭の中があの声に侵食されてアオの顔が分からなくなりそう。早くコップを買わなきゃ。かつかつかつ。
 そう思って地下鉄の切符を買う為、自販機に小銭を入れようとしているのだが巧く入らない。かつかつかつ。
 視界がぼやけてよく見えない上に手まで震えてくる。かつかつかつ。小銭が自販機にぶつかる乾いた音だけが聞こえる。
 地面が突然軟らかくなって足を取られて転んだ。立ち上がれなかった。駅員すら見当たらず助けて呉れる人は居なかった。
 アオに会いたい。
 如何して顔が思い出せない?
 許しては呉れないっていうこと?此の儘此処で、地面に飲み込まれて仕舞えっていうこと?謝ることすら出来ずに。
 視界がざわざわとした闇に覆われていく。
 目を閉じようと思った。でも目の前にすっと白いものが現れ少しだけ闇が晴れた。
 「矢っ張り大丈夫じゃないじゃないですか。」
 見上げると先のカフェの女の子が手を差し出していた。
 「如何しても気になったんで追い掛けてきちゃいました。立てますか?」
 彼女の手を借りてそろそろと立ち上がる。彼女は改札前のベンチまで、私を連れて行って呉れた。
 「歩けます?店まで戻って休んでいった方が良いですよ。」
 仕事場ではないからか彼女の喋り方は少し砕けた感じになっていた。其れにしても今時出来た子だ。見知らぬ人間を助けようなんてそうそう出来ない。
 あのカフェには戻りたくなかったので、ここまで気に掛けて呉れて悪いとも思ったが丁重に断った。
 少し此処で休んでから帰ることを伝えると彼女は其れまで付き添うと言った。
 「御免なさい、仕事中だったのに…」
 「気にしないで下さい。どうせ今の時間暇なんですよ。」
 彼女は新見朝子と名乗った。十八歳の高校生で受験生。バイトなんかしてる場合じゃないんですけどねぇ。苦笑いし乍肩を竦める新見さんは女の私から見ても可愛いと思った。もてるでしょう?と訊くと、そんなことないですよっ、と恥ずかしそうに、意表をつかれたように即答した。
 彼女の御蔭で大分気が紛れ、私は地下鉄に乗った。でも買い物をしに行く気にはなれず、結局コップは今度買うことにして帰路に付いた。
 許して貰えないかもしれない。でも其れよりもアオの顔が見たかった。頭の中は未だくらくらしていてイメージがばらばらと広がっていくだけ。

 家の近くのコンビニで牛乳を買ってアパートへ帰ると、アオが外の階段の下に座っていた。俯いて目を閉じていて、眠っているのか起きているのか判別が付かない。
 声を掛けるのを躊躇い逡巡しているとアオの目がぱちりと開いた。アオはゆっくりと顔を上げ辺りを見回し、そして其の眼が私を捉える。
 「一砂っ。」
 アオは私に駆け寄ってくるといきなり飛びついてきた。
 私は驚き一瞬後ろに倒れそうになったが何とか踏み止まる。未だ怒っていると思っていただけに如何していいか分からず混乱した。
 「御免、一砂。痛かった?御免。御免ね。」
 御免を連発してアオは私の首筋に顔を埋めた。ふわふわとした髪の毛が少しくすぐったい。
 涙が出てきた。嬉しかった。アオが許して呉れて。自分が情けなかった。悪いのは私なのにアオに先に謝らせてしまった。
 御免と言いたかったのに上手く言葉に出来なかった。
 代わりにアオの頭を抱き締めた。
 コンビニの袋は私の手から離れ、牛乳パックは地面にぶつかり拉げた。破損した所からたらたらと牛乳が流れ出し、私達の足元を白く染める。其れに気付いたアオが「あーっ、勿体無いっ」と叫ぶ。私から手を離し、悲しそうにコンビニの袋を拾い上げる。しとしとと白い雫が落ちる。
 「買いに行こうか、牛乳。」
 そう言った私をアオはゆっくりと見上げ、目を細めて笑った。

   *

 一砂が変なことを言った。僕は理解出来無かった。
   「だからね、アオにそっくりな人を見掛けたの。」
 夕食も済み、デザートの紅茶のババロアを突付きながら一砂が繰り返す。一砂手作りのババロアは少し甘過ぎた。紅茶には邪道だとか言って砂糖入れないクセにデザートにはたっぷり砂糖を使う。クッキーもチョコレートケーキもプリンもパンナコッタも一砂が作るものは何でもやけに甘い。
 僕は何と答えて良いか分からず軽口で返す。
 「何それ。ドッペルゲンガーってこと?じゃあ僕もうすぐ死ぬのかなぁ。」
 「何言ってんの、もう。」
 一砂が緩やかに笑う。僕も笑う。これで良い。僕の混乱は見せちゃいけない。
 そう、僕は混乱していた。
 僕に似ているという男。一砂はそいつを見て気分が悪くなったと言った。それが僕を一層不安に駆り立てた。
 もしもう一度そいつと出会ったら一砂はどうするんだろう。嫌な気分だ。ただの偶然なら何も問題は無い。でももしそうじゃなかったら…。
 いつの間にか押し黙って険しい表情になってしまっていたらしく、僕の顔を一砂が覗き込んでくる。心配そうな、不安そうな目を僕に向ける。
 「どうしたの?気分悪い?美味しくない?」
 考えても如何にもなることじゃない。僕は取り敢えずその考えを頭から追い払った。そして一砂に向かって言った。
 「甘過ぎ。」
 一砂は一瞬目をぱちくりとさせ、「ひどー」と頬を膨らませた。
 甘過ぎる紅茶のババロア。一砂から漂うお菓子の匂い。それがどうしようもなく愛しかった。
 ドッペルゲンガー。
見た人間は近い内に死に至るという。見たのは僕ではないけれど。
もし僕が先に死んだら一砂は悲しんでくれるだろうか。半年近く一緒に暮らしていてもまだそんなことすら分からない。僕達の関係は、実に脆いものでしかない。
 一砂が寝静まったのを確認して、僕はパソコンの電源を入れた。ヴンッと小さな音がして青白い光が辺りを照らす。僕は一砂に光が当たらないように液晶の画面を傾けた。
 カタカタとキーボードを打つ音が静寂の中に広がっていく。用件を打ち込むとある人へ向けてメールを送信した。連絡を取るのは何年ぶりだろう。もしかしたら僕のことなど忘れ去っているかもしれない。  本来なら僕だって彼にメールなんて送りたくない。忘れ去っていてくれて一向に構わない。でもどうしても訊かなくてはいけないことがあった。答えが返ってくるかは分からないけれど。
 暫くその儘待ってみたがメールが返ってくる様子はなかった。こんな夜中だし第一すぐにメールを読むとは限らない。待つだけ無駄かもしれない。それでも待たずには居られなかった。
 スクリーンセイバーの映像がゆるゆると動く。藍色の画面の中に雪の結晶が降っている。僕は眠っている一砂に目を向けた。一砂はうつ伏せになって枕に頭を押し付けて眠っている。一砂はいつもこの寝方をする。何だか苦しそうだ。
 もう夜は大分冷え込むというのに窓が開いていた。換気してその儘眠ってしまったのだろう。意図的かもしれないけど。冷たいピンと張り詰めた秋の夜の空気は一砂の好きなものの一つだから。だからと言ってこの儘では風邪をひいてしまう。僕はなるべく音を立てないように窓を閉めた。一砂が微かに呻いた。

 結局メールは帰ってこず三日が経った。あの後一砂の口から僕に似た男の話が出ることは無く、何事も無く過ぎていくならそれで良いと思っていた。
 ただの偶然。長い長い一生の中のほんの一瞬の出来事。取るに足らないこと。
 何も気にする事は無いんだ。
 そう思っていた。
 そう思いたかった。
   それなのに、僕がゼミの発表の準備とバイトで忙しい一砂の代わりにスーパーに買出しに行って帰って来てパソコンを確認するとメールが届いていた。
 一瞬息が出来なくなった。マウスを持つ手にじんわりと嫌な汗が浮かんでくる。メールを送った直後は早く返事が来て欲しかったのに、今はもうこのメールを開くのが怖い。
 それでも僕はゆっくりとマウスのボタンをクリックする。返事が来てしまった以上、先送りにしても仕様が無い。
 メールには簡潔に、僕の質問に対する答えだけが書かれていた。


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