殴ることないのに。
私は呟き乍地下鉄を降りた。左の頬がぎしぎしと痛い。人間が沢山いると感じる濁って重たくて生温い空気が肺に入って気持ち悪い。
嗚呼もう朝から気分最悪だ。朝食のときにアオと喧嘩をした。些細なことだ。本当に小さな小さなこと。しかも悪いのは私の方。ちゃんと分かっていたのに謝れなかった。
アオの牛乳の飲み方がムカついた。其れだけの理由でアオのお気に入りのコップを引っ繰り返して割ってしまった。普段は滅多に怒らないアオも流石に拳を握り締めていた。
疲れてるのかな。アオの牛乳の飲み方は好き。其の筈なのに。
忙しく動く朝の人間達の中で立ち止まり頬を摩る。私の後ろを歩いていた人々は流れを堰き止められ、迷惑そうに私を軽く睨んで足早に歩き去る。
軈て人の波は地上へと吐き出され、私はホームに一人取り残された。
コップを買おう。そしてアオに謝ろう。
アオはあのコップをとても大事にしていたから、償いにはならないかも知れないけれど。
私はそう決めると大きく深呼吸した。別に清清しくも無い空気を肺に入れる。気持ちはやっぱり悪い。でもとりあえず行動しなきゃいけないときは此れがいちばんだ。自分を無理矢理現実に繋ぎ止めておける。
コップを買うにも未だこんな時間じゃ開いている店は無い。何処かのカフェで時間を潰そう。牛乳たっぷりの紅茶を飲んで。
アオの牛乳の飲み方は少し変わっている。
テーブルにコップを置くと溢れんばかりに牛乳を注ぐ。一気に勢いよく。牛乳が表面張力でぽっこりと膨らむ。コップの縁のぎりぎりのラインで微かに震えている。何度か真似してやってみたけれど私にはできた例が無い。私がやろうとしても絶対に溢れさせてしまう。アオは其れを見て牛乳に対するアイジョウが足りないんだよ、と笑う。
表面張力の牛乳は朝は綺麗な乳白色。まだ昇ってきたばかりの太陽の光を浴びて、窓から吹き込む風でゆらゆら揺れる。そして夜は太陽の代わりにダイニングの照明を浴びる。オレンジ色のライトの光を浴びた牛乳は蜂蜜色になる。甘い甘いイロ。
そんな牛乳は手で持てば直ぐに溢れてしまう。だからアオは最初の一口は手を使わない。少し伸びてきた前髪を両手で押さえて動物みたいに牛乳を舐める。
初めはちょっと吃驚した。親に怒られなかった?って訊くと悪戯をした後のオトコノコの様な笑みを浮かべる。父親には散散行儀が悪い、はしたないって怒られたけど母親には何も言われなかったんだって。寧ろ父親の見ていないところでは、猫みたいで可愛いって頭を抱き締めて呉れたみたい。
嗚呼オカアサン有難う。アオのこの癖を止めさせないで呉れて。私はこうして牛乳を飲んでいるアオの顔を眺め乍、少し焼き過ぎたトーストを齧っているときがいちばんスキ。
カフェに行くことを決めたのはいいが、此処は今迄に一度も降り立ったことの無い駅。喧嘩した勢いで適当に電車に乗り、適当に降りてしまった為に何処に何が在るのか全くもって分からなかった。
如何しよう。戻った方がいいかな。
そうは思ったがどうせ今日は大学もバイトも休みで時間もたっぷり有ることだし歩いて駅周辺を散策することにした。
地上に繋がる階段を上ると其処は住宅街だった。マンションやオフィスビルといった高い建物は見当たらないのだが、しかしどこか閉鎖的な印象のある町並みだ。塀に囲まれた一軒家が多いからだろうか。こんなところにお店なんて在るのかな。少し疑問も頭を擡げたが、でも住宅街だからこそ少し歩けば飲食店くらい在るだろう、そう思い直し私は歩き出した。
未だ朝早いというのに矢鱈と太陽が眩しくて思わず顔を覆う。元元太陽は余り得意じゃない。光を浴びるとくらくらするのだ。
小学校のときの全校集会を思い出す。外で行う必要性など何処にも無いのに校庭に集合させられ、度度貧血者を出す有害極まりないもの。でも貧血で早早に倒れてしまった者は幸福だと思う。あの光の中、校長の長いだけで身の無い話を聞かずに済んだのだから。自分は中々倒れられなくて苦しんでいたというのに。倒れる振りをすれば良かった。今になって思う。要領が悪いんだ、昔から。実際気分が悪い振りをして教室に引き上げている女の子も数人居た。私は彼女達を羨ましく見詰め、太陽を疎ましく思い乍、両足を踏ん張っていた。
あの時の身体中に突き刺さる様な光。其れに何処か似ていた。
いつもなら持っている筈の黒い日傘も部屋を勢いで飛び出して来てしまったので今日は持っていない。仕方なく為るべく日影を選んで歩くことにする。
住宅の塀に沿って歩き、其の塀が途切れると次の家の塀へ。塀が途切れて道路を渡らなければならないところは小走りで通り過ぎた。
段段道が狭まってきた。蔓薔薇か何かの植物が巻き付いた垣根の脇を進んでいく。花は咲いていない。ただ緑だけの空間。自分がどっちから来たのかすら分からなくなって仕舞いそう。嗚呼矢っ張り引き返した方が良かったのかも。何故だか此処は入ってはいけない場所の様な気分にさせる。
今度道が別れていたら引き返そう。そう思って歩を進める。下はアスファルトの筈なのに何だかふわふわしていて足を取られそうになる。
もう帰りたい。
そんな私の思いを無視するかの様に分岐点は無かった。帰りたいと思った時点で帰れば良かっただけなのだけど私の思考はその選択肢を弾き出しては呉れなかった。
緑の中を道なりに進む。結局分岐点は無かった。角を曲がると其処は行き止まりになっており目の前には一軒の建物が在った。
真白い壁に琥珀色で小さくcaramel miLkと書かれている。 中の様子は周りが木木で囲まれているため分からないが、扉の脇にドリンクメニューを記したブラックボードが立てかけられているところから辛うじてカフェだと分かった。ブレンドコーヒー、カプチーノ、エスプレッソ、ダージリン、アッサム、セイロン、ココア、オレンジジュース…白いチョークで書かれた女の子らしい丸文字が並んでいる。木製の扉には丁度目の高さのところにステンドグラスが嵌め込まれていて十字架を背負ったマリア様が佇んでいた。
カフェというより寧ろ教会みたい。周囲の静謐さがそんな雰囲気を膨張させている。
最初はカフェを探していた筈だったのにもうはっきり言って如何でもよかった。お茶をする心の余裕なんて無くなっていた。
入る気は無かった。此の儘引き返そうと思った。でも手は自然と扉の取っ手を握っていた。
ねえ、アオ。
あのときあのカフェに入らなければ私達は未だ一緒に居られたのかな?
後悔なんてしたって仕方ないことは分かっているの。
でも私は、失いたくなかった。牛乳を飲んでるアオの顔を眺めていたかった。ずっと。
*
激しく後悔していた。殴るべきじゃなかった。
一砂は前の日、バイトでクレームの応対をしていたらしくで毒気に当てられていたみたいだった。一砂は生活費を稼ぐ為、本屋でバイトをしている。ニンゲンが苦手な一砂にとって接客業をすることは文字通り必死の行為だ。
一方僕はというと日がな一日ごろごろしているだけだ。たまに日雇いのバイトもするけどその収入は微々たるものだ。長期のバイトも幾つかやったことはあるのだがいつも問題を起こして止めさせられる。自分の意見を絶対に曲げないことに原因が有るのは明白なのだが。
店長の意見に逆らうこと数知れず。下手をすれば客にまでつっかかってしまう。
だって許せないものは許せない。それがどうしていけないことなのだろう。
僕がこんな調子で暮らしていけるのは一砂の収入に頼っているからだ。こういうのをヒモっていうんだろうか、やっぱり。
一砂は大学にだって行っているし、親元を離れて暮らしている。少ない仕送りとバイト代だけで僕を養っていくのは決して簡単なことじゃない。一砂は勉強だって疎かにしたりしないのだ。
友達と遊ぶ暇も無い。一砂は人付き合いは得意な方じゃないから、元々友達は少ないみたいだけど。
どんなに疲れていたって一砂は弱音を吐こうとしない。何もしない僕を笑って許してくれる。ほら見て、スーパーで牛乳が安かったの、これでパンナコッタ作ろうと思って。そういって自慢げにスーパーの袋を掲げてみせる。
そんな一砂を僕が責める権利なんて無い。微塵も無い。一砂が間違った道に進もうとしたらそれを正すぐらいのことはする。でもそれ以上はいけない。彼女の人生に介入して彼女を縛り付けちゃ駄目なんだ。一砂に好きな男ができれば僕は潔く身を引こうと思う。身を引くってのも変な言い方だけど。僕等は別に付き合っているワケでは無いんだし。まあその男を憎むくらいのことはするかもしれないけど、一砂が望むなら仕方ない。住む家も無くなってしまうけどまあ暫く野宿するくらいは何でもない。
朝食を食べるとき一砂は少し青ざめていた。昨日のクレームがまだ堪えていたのだろうか。普通の人なら三分で忘れてしまうようなことでも一砂は引き摺るタイプだから。
何を言えばいいのか考えながら、コップの縁ぎりぎりまで注いだ牛乳に口を付けると唐突に一砂が言った。
「いいよねアオは。何もしないで何も考えないで暮らしていけるんだから。」
その言葉は仕方の無いことだった。今迄言われなかったのが不思議なくらいだ。突然のことで多少びっくりはしたけれど。
でも次に起きたことが許せなかった。一砂は牛乳がたっぷりと入ったコップを思い切り床に叩きつけたのだ。
勿論コップは粉々になった。一砂は硝子の破片を浴びて少し光って見えた。手は牛乳塗れだった。
彼女の細い指先からしたしたと滴り落ちる白く濁った液体を眺めていたら何だか物凄く腹が立ってきた。そのコップを僕が大切にしていたのは知っているハズなのに、何故こんなことをするのか理解出来なかった。
頭の中が真っ白になり、一瞬自分が何をしたのか分からなくなった。
気が付くと一砂が床に倒れこんでいた。頬が赤く染まり、手は硝子の破片で切ったのか薄く血が滲んでいた。
思わず自分の右手を見る。彼女の頬と同じ様に赤い。自分が何をしたのか、理解するのに暫くかかった。
一砂は薄らと涙を溜めた目で僕を見上げていた。でも決してその涙を零すことなく、立ち上がり部屋を出て行った。
取り残された僕はただ呆然とするしかなかった。自分のした行為が信じられない。彼女が傷付き易いこと位分かっている。彼女は傷付いたら心の中で生まれた刃を、自らへと向けてしまうことも。
床に散らばる青いコップの破片が白い液体の中できらきらと輝いている。僕は一砂の左腕を思った。何本も何本も平行に付いた傷を。
最近は増えることは無かったけれど、それがいつまで続くかは僕なんかじゃ分からない。あの傷が増えることを僕は望んでいない。白い綺麗な腕に異物の様に張り付いたピンクや茶色の傷痕は、彼女をより儚げに見せる。まるで名前の通り砂になって消えてしまいそうで怖かった。
探しに行こうにも僕は一砂の行動範囲を知らなさ過ぎる。大学とバイトしか彼女の行く場所を知らないし、あんな状態でどちらに行くとも思えない。零れた牛乳を雑巾で拭きながら、僕は祈る事しか出来なかった。
僕は一砂みたいに語彙も多くないから上手く言葉は紡げないけれど、謝りたい。自分を責めたりしないでほしい。コップなんてまた買えばいいんだ。
だから、帰って来て。
雑巾を洗って、のろのろとベッドに座り込むと、力が抜けてそのまま倒れ込んでしまった。
薄らと彼女の使っているシャンプーの香りが僕を包む。