MILK10



 真っ青なコップに牛乳を注ぐ。牛乳は昇ってきたばかりの太陽の光を浴びて、艶のある乳白色になる。窓から吹き込む風でゆらゆら揺れるカーテンが牛乳に映っている。
 それを一気に喉の奥に流し込む。冷たい感触と共に、食道と胃の内側に膜が張られた感覚がある。これで大丈夫だ。これで今日一日は何を食べても吐かない。僕は心の中で呪文の様に呟く。
 一時期は吐き気が止まらなかった。何を食べても吐いてしまい、体重は五キロ落ちた。それでもお腹は空くし、無理矢理口の中に食べ物を押し込んだ。やっぱり吐いた。
 何度も何度も仕事中に倒れ、バイトをいくつもクビになった。「君の体力じゃこの仕事はキツイと思うんだ。」柔らかな口調でそう言われたら、僕には「辞めます」と言う他無かった。
 食べては吐いて、吐いては食べてを繰り返し、そんな或る日、ひとつの小包が届いた。差出人を見ると以前少しだけ話をしたことのあるお節介な人間からだった。中には綺麗にラッピングされた限りなく青いコップと短い手紙が入っていた。「彼女がキミの為に買ったものです。」手紙にはそう書かれていた。僕はコップを持つ手を振り上げた。割ってしまおうと思った。
その状態でどれくらいじっとしていただろう。結局腕を振り下ろすことが出来ず、コップをシンクに置いた。深い青が僕の気力を吸い取ってしまったみたいだ。
 次の日の朝、僕は何気なくそのコップで牛乳を飲んだ。その日は嘘のように何も吐かなかった。あんなに毎日毎日、僕の身体は口にしたもの全てを拒否し続けていたのに。
 偶然だと思った。だから翌日は青いコップを使わなかった。トーストを口にした瞬間、胸が物凄く気持ち悪くなって、すぐにトイレに駆け込んだ。更に翌日、また青いコップで牛乳を飲んだ。吐き気に襲われることは無かった。
 可笑しくなった。笑った。一人で笑い転げた。涙が出る程笑った。なんて滑稽で、格好悪くて未練がましいんだろう。そう思って笑えた。あんなに笑ったのは小学生以来ではないだろうか。
 一気飲みしたコップを流しに置き、そこで立ったまま固ゆでのゆでたまごを食べる。本当は半熟が好きなんだけど、上手く作れた試しが無い。何度やっても白身がどろどろか黄身がぼそぼそ。中が見えないものをどうやって作れば良いのかまだによく分からない。
 外を眺めながら歯磨きをし、真っ黒いTシャツと黒目のジーンズに着替える。財布と鍵を手に取りクーラーの電源を切る。足を踏み出す度にぎぃぎぃうるさい廊下を歩き、玄関で黒いスニーカーを履く。
 玄関の扉を開けると湿った生暖かい空気が部屋の中に雪崩れ込んできた。クーラーで冷やされていた家をみるみるうちに侵食していく。僕は大きく息を吸い込んだ。湿って熱を帯びた空気が、即効性の毒みたいに全身に回る。夏の太陽の日差しは毛穴の一つ一つに突き刺さるようだ。目を閉じて、お腹に手を当てて大きく息を吐く。
 目的地まではバスも出ていたけれど僕は歩くことにした。
 それにしても暑い。太陽がじりじりと音を立てて、ところどころヒビ割れたでこぼこのコンクリートを熱している。足元から漂ってくる熱気が目に見えるくらいだ。歩いているだけでTシャツは汗でびしょ濡れになった。
 途中にある小さくて古びた花屋で小さなヒマワリを買った。もう八十過ぎになる花屋の女主人は、もう三年になるんだねえ、と空を見上げながら言った。つられて僕も空を見る。晴れていた。見事なまでに快晴だった。雲ひとつ無い抜けるような青空だ。去年も一昨年も、そしてその前の年も、この日はじとじとと雨が降っていたというのに。僕はぺこりと頭を下げ、古い家屋と花の香りの混ざった空気を掻き分けるようにして外へ出た。
 僕は田んぼ道を歩く。両脇では青々とした稲がざわざわ音を立てて揺れている。畦道の草取りをしている麦藁帽子を被った老人が、僕とヒマワリを見て懐かしそうに目を細め手を大きく振る。白いランニングシャツから伸びた老人の腕は皺くちゃで折れそうな位細くて、それなのに健康的に日焼けしていて力強さを持っていた。僕はぺこりと頭を下げて田んぼ道を駆け抜ける。
 三十分程歩いて小さな寺に辿り着いた。本堂と申し訳程度の鐘が在るだけの小さな小さな寺だ。それでもお盆になればお祭りで、年始には初詣でこの周囲に住む人々で溢れる。僕も母さんとかき氷を食べたりお汁粉を食べたりした。何だか食べ物の思い出ばっかりだ。トウモロコシ、ミカン、林檎飴、甘酒、綿菓子、サッポロポテトのバーベキュー味。
 鐘の周りでは半袖半ズボンの少年達が周囲に設けられた木の柵によじ登ったり三人がかりで鐘を撞いたりして遊んでいた。子供の力ではさほど大きな音は鳴らず、ぼぉんとくぐもった音を立てただけだった。
 僕は鐘の横の脇道をすり抜けて、その先にある墓地に向かった。さほど大きくはないけれど、この辺り一帯の家族は皆ここに眠っている。
 入口で桶に水を汲もうとしたけれど、一つしかない木の桶が見当たらない。誰か先約がいるんだろう。それとも毎日掃除をしている老婆だろうか。僕はとりあえずそのまま先へ進んだ。
 足が止まる。入口から三列目のいちばん奥の母さんの墓、その前で僕と同じ顔をして人間が手を合わせている。僕はその様子を凝視した儘、体が動かせなくなった。
 長い間、そうしていた気がする。やがて彼はゆっくりと目を開けて、僕の方を見た。流れる様な動作で立ち上がり、その場を譲るように脇に体をずらす。
 僕はおずおずと近寄り、墓の前にしゃがみ込んだ。
 両脇に在る花瓶の左側には、青い花が生けられていた。一つの茎に小さな花が沢山付いた、見慣れない花だった。僕は空いている右側の花瓶に持っていたヒマワリを差し込んだ。
 両手を合わせ目を閉じる。じわじわと鳴く蝉の声が聞こえる。額から汗が頬を伝って滴り落ちる。瞼が赤い。目を閉じていても太陽の光が突き抜けてくる。
 「去年は何の花を生けた?」
 目を開けると、僕と同じ顔の人間が僕に尋ねた。
 「…ヒマワリだよ。」
 「一昨年は?」
 「……ヒマワリ。」
 「安易だな。」
 彼は鼻で笑って呟くと紙袋を僕に差し出した。筆記体で書かれたロゴの入った紙袋。どこかで見覚えのあるクリーム色の紙袋。僕が受け取らないでいると彼は自分で紙袋の中に入った箱を開け、中身を僕の手に無理矢理握らせた。
 パンナコッタだった。
 続いてプラスチックのスプーンを取り出し、逆の手に握らせる。更に彼はもうひとつ、箱の中からパンナコッタを取り出し向かい側の墓の段差に腰掛けて食べ始めた。
 「来る途中で買ってきた。」
 彼は食べながら言う。僕は地べたに座り込み、スプーンをゆっくりと口に運ぶ。
 炎天下の中運ばれたであろうパンナコッタは生温かったけれど、甘過ぎずでも濃厚な生クリームの風味が漂って美味しかった。美味しかった。美味しいのに。
 「どう?」
 彼が感想を求める。
 「美味しいよ。」
 なのに何故。
 何で僕は物足りないと感じているんだろう。
 僕は半分も口に出来ず、砂利の上にカップを置いた。直ぐに小さな蟻がカップをよじ登り、食べかけのパンナコッタの中で嬉しそうに忙しなく動いていた。
 「今日彼女に会って来たよ。」
 彼が言った。顔を上げると彼は僕を真っ直ぐ見据えていた。
 僕が去ってから彼と彼女の間に親交があったことは知っていた。時折メールで近況を知らせてくる人間がいたから。
 意外だった。きっと彼女は一生僕等のことを許さないだろうと思っていたから。
 でもこの洋菓子店には、ついで≠ナは行けない
 彼の住んでいるところからは、一度電車を降りなくては行けないんだ。
 「お前に何か伝言は無いか聞いたけど、無いってさ、何も。」
 彼は暫く彼女との話を語った。仕事の愚痴や最近観た映画やランチが美味しかったレストラン。
 どうでもいいような話ばかり。細かい内容はちっとも頭に残らなかった。
 けれど彼と彼女がそんな会話を交わしている姿が鮮明に思い浮かんできて、僕は心臓が鷲づかみにされるような気分を感じた。想像の中の彼は、当然僕と同じ顔をしている。でもそれは、僕じゃない。
 何も言わない僕に彼は苛立っているようで、微かに眉間に皺が寄っていた。
 「彼女は一人で頑張ってるよ。何時までもうじうじと此処で蹲ってるお前と違って。」
 怒っている様な呆れている様な悲しんでいる様な何とも言えない目付きだった。
 馬鹿にされているのに僕は全く怒る気になれなかった。彼は昔、僕が勝負に勝ったと言ったけれど、この敗北感はなんだろう。
 「そう…」
 彼女は脆い。
 脆くて傷付きやすくて人付き合いが下手で怒りを他人にぶつけるのが苦手で真面目で怖がりで臆病で――
 でも、前を見ていた。
 下を向いてももう一度顔を上げて前を見詰める強さを持っていた。初めから前なんて向いたことのない僕と違って。前も後ろも見たことの無い僕と違って。
 視線を外し俯いた僕を見て、彼は食べ終わったパンナコッタの容器を思い切り投げ付けた。プラスチック製の容器はかこんと僕の額にぶつかり、地面に落ちて石畳の上を転がった。
 「だから、邪魔するな。」
 彼は立ち上がって歩き出した。
 足元でパンナコッタの容器がからから回っている。僕は彼の足音が消えるまで、その様子を見詰めていた。やがて足音が消えると、蝉の声が一段と大きくなった。仲間を呼び続ける蝉の声。諦めること無く、命の続く限り伴侶を呼び続ける蝉の声。たった一週間でその命はつきてしまうのに。
 彼が投げ付けたパンナコッタの容器にも、直ぐに蟻が集り出した。蟻にも味とか分かるんだろうか。有名な洋菓子店のと家で作ったのとだったらどっちを選ぶんだろう。
 …僕は地面に置いた食べかけのパンナコッタを取り、蟻の居ないところを選んでもう一度口に運んだ。物足りなかった。
 甘いパンナコッタが食べたかった。
 甘過ぎるパンナコッタが食べたかった。
 生クリームは高いからって牛乳が多くて淡白な味になってるくせに、砂糖たっぷりでやたらと甘過ぎるパンナコッタが食べたかった。
 涙が出てきた。手の甲で拭っても次から次へ溢れ出してきて止まらない。
 濃い目に煎れた苦い紅茶と激甘のパンナコッタ。
 何だよ、やっぱり食べ物の思い出ばっかりだ。
 涙でぼやける視界の中で、黄色い花と青色の花が揺れている。夏に咲く青い花。きっと探すのは大変だっただろう。僕はひとつも名前が浮かばない。この暑い中、何軒花屋を回ったんだろう。
 僕は立ち上がって走り出した。

 過去なんか忘れられる。
 切り捨てて生きていける。
 でも。
 切り捨てちゃいけないものがあった。
 忘れちゃいけないものがあった。

 僕には、失いたくないものがあった。
 額に手を当てて、僕は走った。

 スーパーに駆け込んで砂糖と生クリームと牛乳を買った。


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END





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