空色時計







 三ヶ月前に亡くなったという祖父の遺品の整理を母からいきなり頼まれた。
 自分に母方の祖父がいることすら初耳だった僕は、それはそれは寝耳に水で、一瞬脳内思考回路フリーズ。何度か頭をかるく叩いてみても回復の兆しが得られないので机の角にがつんと一発額をぶつけてみた。
 それくらい母は祖父のことを口にしなかったし、訊いてみても知らぬふりを決め込んでいたのだ。てっきり僕は、祖父はもう死んでいるか、またはよほどひどい方法で母を捨てたかと思っていた。
 問いただしてみると実際祖父と祖母は離婚していたらしい。理由は性格の不一致とか浮気とかではなく、祖父の方から一方的に、だったそうだ。理由は教えてくれなかったという。ただ生活費と養育費だけはきっちり毎月毎月振り込まれていた。
 けれどやっぱり母には理由もわからないままで捨てられたようなものだったようだ。多感な時期に祖父と別れ、元来意地っ張りだった母は結局祖父を許せずにずるずると話す機会を失ったまま先日訃報を受け取ったということらしい。
 随分前から体調を崩していたのにこんなにも連絡が遅れたのは、母の連絡先を祖父の周囲の人間が知らなかったからだそうだ。どころか親類の連絡先を祖父は一切手元に残していなかった。 だけど遺品の整理くらい自分でやればいいのに、相手が死んでもなお顔を出すことができないなんてほんとに母の意地っ張りは筋金入りだ。
 特に必要なものは無いので、捨てるものは捨て、売れそうなものは売って手間賃として構わないとのことなので、僕はため息をつきつつも引き受けることにした。


 簡単に引き受けてしまったが僕はすぐに後悔した。祖父の家は一人で暮らすには膨大な敷地を誇り、納戸だけでなく庭には古びた倉まであった。到底一人で対応できる量じゃない。誰かに手伝いを頼もうかとも考えたのだが、母の意地っ張りが筋金入りなように僕の強欲なところも筋金入りなのだ。まぁ威張ることではないけれど。自分が手に入れられるかもしれないお金を他人に分けるのは癪だよね。
 時間をかけてやればいいか。倉があるくらいだから、値打ち物もきっとあるだろう。
 しかし出てくるものはいけどもいけども紙の束ばかりだった。ちらと目を通してみると童話のような子供染みた物語が何編も何編も綴られている。納戸も倉も書斎も寝室もどの段ボールを開けてもどの木箱を開けても紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙紙。
 膨大な量の物語。
 教職についていたと聞いているけど童話作家でも目指していたのだろうか。魔法とか妖精とか天使とか、そんなものが跋扈している紙面に、僕は正直吐き気を覚えた。
 こんな夢見がちな人間が僕と血の繋がった祖父だって?有り得ない有り得ない有り得ない。
 子供の頃から妖精も天使もサンタクロースも信じていなかった。冷めた子供と言われても、周囲を子供っぽいと笑って、それを誇りに思ったくらいだ。そんな僕の祖父がこんな夢見がちな人間だったなんて。何かショックだ。
 しかしこんなに何も出てこないなんて本当にただの骨折り損だ。僕は整理を始めてから五十九回目の溜め息を吐いた。
 僕はイライラしながら、書斎のやけにごてごてと装飾がついた机の引き出しを乱暴に引き抜いて床にぶちまけた。案の定紙がばさばさと降り積もるだけ。二段目3段目も同じ様に。
 だけど四段目を逆さまにしたときだった。ほすっ、と紙の山の中に、何か重量のあるものが落下する音がした。
 僕は首を傾げ、紙の山をかきわける。そこには銀色の懐中時計が落ちていた。錆ひとつない表面には名前は知らないけど見たことある花の装飾が施されている。蓋を開けるとかちり、と音を立てて闇色の文字盤が現れた。金色の星屑がはらはらと濃紺の中に散っている。
 星空。か。
 銀色の時針は十二時丁度で止まっていた。
 そう言えば外はもう真っ暗だ。書斎の窓から空を眺めると、文字盤と同じような星空が広がっている。今日はもう帰ろう。僕はジーンズのポケットに懐中時計を押し込んで、帰路を急いだ。


 結局その懐中時計くらいしか換金できそうなものは出てこなかった。家具はリサイクルショップに売り叩いたが、随分年季は入っている割に大したことないものばかりだったのでやっぱり金の方も大した額にはならなかった。まったく割に合わない仕事だった。
 せめて懐中時計だけでも高値で売れたらいいのだが。だけど僕は目利きではないし、あんな祖父の家の状態を見た後じゃ期待なんかできない。それなりに綺麗な時計ではあったが、綺麗なだけならその辺にごろごろしているだろう。
 僕は布団を被ったまま、ベッド脇の棚に置いてあった懐中時計を手探りで掴んで引き寄せた。かちり、と蓋を開けてみる。
 すると何か違和感を感じた。時計はやはり止まったままで針は十二時を指している。何がおかしいんだろう。わからない。
 気にはなったが、どうせもう売り払ってしまうものなので、考えるのをやめた。今日の学校帰りにでも質屋に持っていこう。
 そう思い、鞄の中に滑り込ませた。


 四限まで終えて、質屋に着いたのはもう日も暮れかけた頃だった。既に顔見知りの店主は何も言わずに白手袋をはめた手で品物を受けとると、まずは表面だけじっくり見つめ「大した値段にはならないよ」と早口で言った。
 まぁそんなことは百も承知だ。だけど壊れた時計なんて持っていても仕方ないし、ゴミになるだけだ。なら少しでも金にしてしまった方がいい。「構わないですよ」と言って店主を促した。  店主が眼鏡をかけて懐中時計の蓋を開ける。僕は店内の品物を眺めながら店主の査定を待った。古びた壷やら掛軸やら、食器、人形、ぬいぐるみ。胡散臭いもの信じられない値段のついたものタダ同然のもの、統一感の欠片もない商品が所狭しと並んでいる。埃を被った品物も少なくない。
「精々千円といったところですよ。文字盤は綺麗な夕焼け色なんですけどね」
「あーまぁ予想通りで…」
 金額に関しては値段がつけばいい方だと思っていたので文句はない。文句はないが。
 夕焼け色?
 今夕焼け色と言ったか?
 そんなバカな。
 僕は夕焼け色だなんて見た記憶がない。
「夕焼け色?その時計の文字盤は青空じゃありませんか」
 言って更に違和感を覚える。
 青空?
 今日朝見たときは確かに澄んだ青色の文字盤だった。突き抜けるような夏の空の色。
 けれど、祖父の家で見たときは青空なんかじゃなかった気がする。深い深い濃紺の、星空じゃなかっただろうか。
 それを説明すると店主は「へぇ、時間によって文字盤が変わる仕掛けなんですねぇ」とつまらなそうに言った。
 見たところ電池式の時計で電池は切れているようなのに何故この機能は生きているんだろう。いや、電池をは違う方法で動いているのかもしれないが。僕は何だかひっかかってその場では売らずに懐中時計を持って帰ることにした。


 それから何度も何度も懐中時計を確認した。懐中時計の文字盤はやはり時間によって変化した。青空、夕焼け、星空。
 けれど驚いたのはそんなことではない。曇りの日には灰色の分厚い雲が小さな小さな丸い空を覆い、雨の日には文字盤にぽつぽつと透明の粒が張り付き、まるで雨粒に濡れたかのようになった。
 気温や湿度などを読み取って変化しているのだろうか。そんな機能が存在するかどうかは知らないが、科学がどんどん進歩する世の中だし僕が知らないだけかもしれない。
 しかし何で動いているのだろう。時針は動く気配はないし、やっぱり電池は切れているんだろうと思う。誰か詳しい人間に調べてもらおうか。時計が直れば高く売ることだって可能かもしれないし。
 そう思って時計屋に持ち込んでもみた。電池を変えたら案の定時計は動き出したが、しかし仕掛けは分からず仕舞いだった。どころか見たところ文字盤が変化するような細工はされていないと言われ、ほんとうにそんなことが起きたのかと疑われた。
 時計を預けて本格的に修理を依頼すればよかったのかもしれないけれど、僕は何故だかそれを躊躇した。針が動き出した瞬間、胸の奥がかち、と鳴って、心臓がざわざわと騒いだのだ。それが何だったのかはよくわからない。わからないけれど、そのざわめきが、僕に時計を手放すことを躊躇わせた。
 結局時計の謎は解けないままだった。


 いつの間にか僕は常に懐中時計を持ち歩くようになった。どんなときも上着の胸ポケットに入れておいた。肌身放さず持っていないと不安で仕方なかったのだ。忘れた日はわざわざ授業をさぼって取りに帰った。
 祖父の残した懐中時計。
 空を映し出す懐中時計。
 母親に聞いてもみた。だがしかしそんな時計は知らないと言われた。ただ、「最近顔色が悪いわね」とだけ言った。
 そういえば電池を変えてからというもの、相変わらず胸からかちかちと音が聞こえる気がする。時計が動く音のような。何だか異物が体内に取り込まれたみたいで少し気持ち悪い。何か病気にでもなったんだろうか。まぁ大した症状でもなし、医療費もバカにならないから病院に行く必要もないだろう。僕はそう高をくくっていた。
 だけれど僕の様子は傍から見ると十分おかしなものだったようで、よく友人達から心配された。「なんだか思い詰めた顔をしてるぞ」とか「そんなにそわそわしてどうしたんだ」とか。
 僕はいつもの作り笑顔で「大丈夫、何でもないよ」と返した。それでも引き下がらない友人には少し辟易した。別に心配なんて求めてないのに。ああでも本当にどうしてだろう。心がざわめく。
 僕は一人になって落ち着くと懐中時計を眺めた。今日も文字盤は見上げた空と同じ色。懐中時計を人の目に曝してはいけないような気がして、僕は必ず人気の無いところでそれを眺めた。
 コンクリート打ちつけの屋上へ続く階段の踊り場でいつものように懐中時計を眺めていたら、階段の下から話しかけられた。最近会う度にいつも僕の心配をしてくる友人だ。余計なお節介だというのに。僕は慌てて懐中時計を胸ポケットに仕舞う。
「こんなとこにいたのかよー。な、今日これからカラオケ行くんだけどお前も来ない?」
「カラオケ…やめとくよ」
「何でだよー最近付き合い悪いな」
 何で、と問われても。行く気になれない、ただそれだけだ。そう説明しても、行ってみれば盛り上がれるかもよ、と引かない。本当に気にかけてくれるのはありがたいが、同時に厄介でもある。何か用事でも捏造して断った方が良かったか。
「こんないい天気なんだからさ、遊んだ方が気分転換になるって。最近何だかお前篭ってばっかだろー。空とか拝んでないんじゃね?」
 空の色なら誰よりも知っている。そう、誰よりも。今日の空は絵の具を塗りたくったようなセルリアンブルーだ。さっきまで眺めてた。そう言ったって信じないだろう。大体カラオケじゃあ空なんか見られないだろうに。僕を何とか連れ出そうとしているだけなのだろうけれど。
「あ、なぁ今何時?他の奴等下に待たせてるんだよね」
 そう聞いてきた友人に答えるため、僕はポケットから懐中時計を取り出した。
 何故だろう、手が震える。かたかたかた。銀色の時計も手の平に包まれて小刻みに揺れる。やっぱり誰かにこの時計を見せるのが何だか怖い。
 なんとか蓋を開け、友人に時間を伝える。
「お前どったの?そんなに震えて。風邪?」
 友人の手が突然僕の額に伸びた。僕は思わず後ろに体を引き、その瞬間するりと懐中時計が手の中から滑り落ちた。
 きんっ。
と鋭い音を立てて懐中時計はコンクリートの床の上に落ちる。弾みで蓋が開き、露わになった文字盤はやっぱり今日の空と同じように雲ひとつない青空だった。
 そして衝撃でカバーガラスには亀裂が走っていた。

 ああいけないこれはまずいこれはよくない。

   何が悪いのか分からないのに、僕の心は勝手にそんな言葉を導き出した。拾い上げた懐中時計を握りしめ、僕は直立したまま動けなくなった。強く強く手の平を握る。懐中時計がみしみしと音を立てている。
「あ、悪ィ。大丈夫か?」
 僕の異変に友人は戸惑いつつも再び手を伸ばし、僕はまた後ずさった。その瞬間震えていた足は上手く動かず、バランスを崩し、頭から窓ガラスに突っ込んだ。
 ばりぃぃぃぃぃんっ。
とガラスが砕け、僕の頭に突き刺さる。深く深く、鋭い刃が牙を剥く。随分と思い切り転んだようで、尖ったガラスが何本も体内に侵入してくるのが分かる。

   痛い、それよりも、熱い。

 友人の声がやけに遠くに聞こえる。頭は冷え切ってやけに冷静なのに、何を言っているかよくわからない。きゅうきゅうしゃ、その単語だけが聞こえ、ばたばたと慌てて階段を駆け下りる足音が遠ざかっていく。
 何も見えない。流れ出る血が目に入って開けていられない。頭は血がよく出るって聞いたことがあるけれど本当みたいだ。それでもなんとか薄目を開けると、皹が入った状態で強く握りしめていたからか、カバーガラスが粉々に砕けた懐中時計が見えた。
 割れたカバーガラスの破片で傷つけたようで手の平には無数の真新しい傷が出来ていてた。そんな傷だらけの手の中にあった懐中時計の文字盤は、僕の血で汚れた窓越しに見える空と同じに、ぽつぽつと赤い色が散っていた。
 まるで雨が降ったかのように、赤く赤く濡れていた。
 時計の針は落とした拍子に壊れたのかびんっびんっと同じ場所でゆっくり振動を繰り返している。今にも止まりそうだ。
 僕はもう目を開けているのが限界で、そっと瞼を下ろした。






END








友人からのお題 「懐中時計」より



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