祈りの花風







 「ねぇ、世界にひとつしかない花を探しに行きましょう。」
 少女は少年に言いました。
 「分かったよ。其の花はどの辺にあるんだい?」
 少年は少女に尋ねました。
 「知らないわ。」
 少女は答えました。
 「其の花はどんな形をしているんだい?」
 少年は少女に尋ねました。
 「知らないわ。」
 少女は答えました。
 「其の花はどんな香りをしているんだい?」
 少年は少女に尋ねました。
 「知らないわ。」
 少女は答えました。
 「其の花を見つける手がかりは何かあるのかい?」
 少年は少女に尋ねました。
 「全くないわ。」
 少女は答えました。

 少年は少しばかり途方に暮れましたが、直ぐに旅の為にてらてら輝くナイフと丈夫な皮の靴を用意しました。少女はパンを焼き葡萄酒を瓶に詰め、赤毛をきつくきつく結い上げました。
 そうして二人は崖の縁に建てられた家にきちんと鍵を閉め、太陽の登る方へ向かって歩き出しました。

 少年と少女は草原を探しました。
 「あれは?」
 少女が指差す先には白い綿毛のようなものがふわふわ揺れていました。
 近付いてみると草叢から勢いよく白い兎が飛び出して少年の顔に体当たりをし、少年の顔は泥塗れになりました。

 少年と少女は森を探しました。
 「あれは?」
 少女が指差す先には青いハンカチのようなものがひらひら揺れていました。
 近付いてみると少年は蜘蛛の巣に顔面から突っ込み、巣から逃れて餌にならずに済んだ青い蝶が空に舞い上がっていきました。

 少年と少女は川を探しました。
 「あれは?」
 少女が指差す先には赤い木の実のようなものがゆらゆら揺れていました。
 近付いてみると少年は川底を覆った苔で足を滑らせ、無数の赤い魚の卵が澄んだ水に乗って遥か遠くへ流れ去っていきました。

 少年と少女は町を探しました。
 「あれは?」
 少女が指差す先には黒い烏のようなものがぱたぱた揺れていました。
 近付いてみると女性が血相を変えて家から飛び出してきて、少年は下着泥棒と叫ばれながら追いかけ回されました。

 少年と少女は荒野を探しました。
 「あれは?」
 少女が指差す先には茶色のスコーンのようなものがくらくら揺れていました。
 近付いてみると枯れ落ちたサボテンが風で転がり、少年の足に纏わりついて幾つもの引っかき傷を作りました。

 少年と少女は砂漠を探しました。
 「あれは?」
 少女が指差す先には緑色のセロファンのようなものがちかちか揺れていました。
 近付いてみると水辺と椰子の木だと気付きましたが、息を切らせた少年が辿り着く頃には其れは跡形も無く消え去っていました。

 少年と少女は海を探しました。
 「あれは?」
 少女が指差す先には虹色の水晶のようなものがちらちら揺れていました。
 近付いてみると爪先がびりびりと痺れ、膝が崩れた少年の目の前を電気を放出した海月が嘲るように泳ぎ去っていきました。

 探して探して、もう歩けないくらいにへとへとになった頃、少年と少女は崖の縁に建つ家に戻ってきてしまいました。
 少年はもううんざりして扉の前に座り込みました。
 少女は「今度はこっちの方向に歩いてみましょう。」と一際強い輝きを持った星の方向を指差しました。
 言われても少年は立ち上がりませんでした。どんなものか想像も出来ないような花など探しても、見つけられる気がしなくなっていたのです。いつもいつも子供の頃から少年の歩く道を示してくれた少女を信じていいのかどうか悩み始めていましたし、足も棒の様で、今一度動かせというのは相当に気力のいるものでした。
 むくれた少女が「じゃあ一人で行くわ」と言って憤然と歩き出した瞬間、少女の足元の土が崩れ、少女は暗い谷底へ悲鳴ひとつ上げず落ちていきました。
 少年は慌てて駆け寄り、谷底に向かって少女の名を呼びましたが、自分の声が木霊するばかりで反応はありませんでした。何度も何度も、朝が来て再び夜の帳が下りようとも叫び続けましたが無駄でした。少年はふらふらと立ち上がり、仕方なく少女が指差した方角へとひとり歩き出しました。

 少年は草原を探しました。
 けれども其れらしきものすら見つけられません。

 少年は森を探しました。
 けれども其れらしきものすら見つけられません。

 少年は川を探しました。
 けれども其れらしきものすら見つけられません。

 少年は町を探しました。
 けれども其れらしきものすら見つけられません。

 少年は荒野を探しました。
 けれども其れらしきものすら見つけられません。

 少年は砂漠を探しました。
 けれども其れらしきものすら見つけられません。

 少年は海を探しました。
 けれども其れらしきものすら見つけられません。

 何も何も何ひとつ見つかりません。

 結局行けども行けども花は見つかりませんでした。
 そしてまた、少年は崖の縁に建つ家に戻ってきてしまいました。其の頃には髭も生え、筋肉もつき、少年はすっかり青年になっていました。
 道を示してくれる少女が居なくなり、今まで少女の言う通りに行動してきたかつての少年には自分で道を選ぶ方法など欠片も知りませんでした。如何して良いか分からなくなったかつての少年は、崖沿いの道をとぼとぼと俯いて歩いていました。
 何日も何日も道無き道を歩き続け、お腹も空いて体も重くもう倒れてしまおうかと思った頃、偶然茂みの向こう側に、緩やかな下り坂を見つけました。辿っていけばどうやら谷底に降りられそうです。
 かつての少年は岩壁に手をつきながら、一歩一歩慎重に坂道を下り始めました。時折からからと足元の小石が谷底に落ちていく音で、谷がどれほど深いかが分かりました。かつての少年はごくんと唾を飲み込み、手の平の汗を汚れたズボンで拭いました。湿った苔で何度も足を滑らせそうになりましたが、何とか腕の力で堪えました。少女と旅に出た当初の華奢な体だったらとっくに谷底に滑り落ちていたことでしょう。
 一時間ほど下り続け、ぼろぼろの革靴が漸く谷底を捉えました。其処は暗くてじめじめとして、立っているだけで体中がじっとりと濡れました。
 暫く歩くと、丸い広間のような空間に太陽の光が降り注いでいました。苔しか生えていなかった谷底の中で、突然に色の洪水がかつての少年を襲いました。かつての少年は眩しさに目を細めました。色の殆ど無い谷底の中で、其処だけが赤や青や黄色といった色とりどりの空間となっていたのです。
 花が咲いていたのです。
 今までに何処かで見たような花ばかり。けれど記憶に残っているどんな花よりも、此処に在る花々は色鮮やかで何処か誇らしげでした。葉脈は透き通る程で花弁の一枚一枚が露に濡れ、太陽の光を受けて虹色に輝いていました。
 かつての少年は口を半開きにした儘、花を掻き分けてよろよろと歩き続けました。歩を進める度に花弁が宙に舞い、霧雨のようにかつての少年を包みました。
 そして少女とかつての少年が住んでいた家の十倍近くもあるであろう広間の真ん中辺りで、かつての少年はその足を止めました。
 其処には少女の姿がありました。とは言っても少女の原型を留めているものは、きっちり編みこまれた赤毛と、見覚えのあるワンピースだけでした。
 其れ以外は赤紫に崩れていて到底見られたものではありませんでした。長く艶やかだった爪は黄色く変色しているしがたがたと波打ち、其の溝に泥が溜まっていました。眼窩には蛆虫が詰まり、自分のいる空間を手に入れようと縄張り争いでもしているかのように蠢いていました。体は枯木のように細く、瑞々しく白かった肌の面影など何処にも残ってはいませんでした。
 かつての少年は自分が視線をおくっているというただ其れだけで、身だしなみに気を使っていた少女を随分と辱めているような気分になりました。
 けれどかつての少年は少女から目を離すことが出来ませんでした。
 破れた少女の腹からは大輪の花が息づいていました。
 太陽の光の下で柔らかな乳白色に染まった花。
 枯れ果てた少女の腹に根付く花。
 少女の体に、恭しく頭を垂れた其の花をかつての少年は今まで一度も見たことがありませんでした。
 「あぁ、こんなところにあったんだ。」
 綺麗だ。
 自然とそんな言葉が口から零れ、目には涙が溜まりました。
 綺麗だ。
 綺麗だ。
 綺麗だ。
 そう繰り返すだけで、精一杯でした。かつての少年の知っている言葉ではとても似つかわしい言葉などありませんでした。
 かつての少年が辺りを見回すと、花という花の下に何らかの動物の体が横たわっていることに気が付きました。
 蜥蜴の腹からは橙色の小さな百合が、兎の腹からは淡い青色をした鈴蘭が、鹿の腹からは淡い黄色の芝桜、獅子の腹からは真っ赤な向日葵が、辺り一面、どの花もどの花も動物の腹を苗床にし、其の存在を誇示していました。
 はらはらはらはら。
 零れ続ける涙を袖で拭い、かつての少年は少女の横に寝そべって、そして目を閉じました。手を伸ばし、握った少女の手はかつて手を引いてくれた手とは別人のようでした。かつての少年は、谷底に充満した甘い甘い香りを胸いっぱい吸い込みました。

END











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