幼い頃私は甘いものが大好きだった。
ショートケェキ。チョコレェト。キャラメル。アイスクリィム。プリン。シュークリィム。エクレア。キャンディ。それからジャムにホットケェキ。エトセトラエトセトラ。。。
とにかく甘いものさえあれば幸せで甘いものばかり食べていた。ご飯なんか食べられなくなってもお構いなし。何時だって私は気だるい位の甘い香りに包まれていた。
勿論お菓子作りも好きだった。ママはお菓子作りが得意で色々なレシピを教えてくれたし、沢山の本を買ってもらった。
クッキィから始まり色々なお菓子を作った。味見をしたとき、口の中に甘い味が柔らかく広がっていく瞬間が最高に幸せだった。ママは娘とそうして過ごすのが昔からの夢だったみたいで、嬉しそうな顔をして一緒にお菓子作りをしていた。私とママはお互いの顔に付いた生クリィムを舐め合ったり、パパが私達の作ったお菓子を美味しそうに食べている様を想像して笑いあったりしていた。
でもいつしかママは不安を覚えるようになった。私があまりにも甘いものしか食べなかったから。
私は太りにくい体質だったみたいで決して太ってはいなかったけれど、矢張りこんな生活体にいい訳ない。ママは私からお菓子を取り上げた。お菓子作りの本も私の手の届かない戸棚の奥の方に仕舞いこんでしまった。
私は泣き喚いた。
泣いて泣いて声が出なくなるほど泣いて、遂にママは耐え切れなくなって私にキャンディの包みを一つ差し出した。私は鼻を啜りながら、慈しむように其のイチゴミルクのキャンディを舌の上で転がした。
ママは困り果てた。このままじゃいけない。少しの間キャンディを舐める私の姿を黙って見ていたが、やがて思いついたように言った。
「あんまり甘いものばかり食べていると体が砂糖になってしまうのよ。そうしたら蟻さんがいっぱい寄ってきてあなたを食べちゃうんだからね。」
今思えば子供騙しでしかない台詞だ。しかしまだ小さな私は戦慄を覚えた。
そして思わず舐めていたイチゴミルクのキャンディを口からこぼしてしまった。
ピンク色のキャンディは砂が付いて汚れてしまい、悲しい気分になった。
其のキャンディを名残惜しくじっと見ていると、小さな蟻が寄ってきた。みるみるうちに其の数は増えていき、すぐにキャンディの表面はびっしりと隙間なく黒い色で覆われた。
私は気持ち悪くなって吐き気がして、胃の中のものを地面にぶちまけた。胃液しか出てこなくなってもまだ吐き気は治まらなかった。だんだん胃と喉が痛くなってきた。
ママの台詞は子供騙し。そんなの分かっている。蟻が寄ってきたのも単なる偶然に過ぎない。そんなことは分かっているんだ。
でも私はあれから甘いものを食べることができない。
衣替えも済み二学期の中間テストも終わって、暑くもなく寒くもなく教室の空気はどことなく緩んでいた。私の席の後ろに机と椅子が一組、ぽつんと置かれていた。
私は窓際の一番後ろの席だったはずだ。この机は何だろう。
そう考えているとどこかから「今日転校生が来るらしいよ」という声が聞こえてきた。
なるほどね、転校生。私は他人には興味がないのでそんな奴のことはどうでもよかったが、私の後ろの席だというのが気に食わない。誰かに背中を見られ続けるなんて何だか落ち着かない。せっかく一番後ろの席だったのに。
チャイムが鳴り担任が教室に入ってくる。其の後ろには確かに見慣れない女生徒が居た。ざわざわと教室が騒がしくなる。私はソイツの方には目を向けず、ずっと窓の外を眺めていた。外には焦って走っている生徒が何人か見える。走ったってどうせもう遅刻なのにね。
転校生は元気よく「佐藤」と名乗り、私の後ろの席へと向かった。姿は見ていなかったがその歩みが何の迷いも無く、堂々としたものだというのは分かった。 普通初めての場所に放り込まれたらもっと緊張するもんでしょう。気に入らない。
彼女が私の横を通り過ぎた瞬間、何だか空気がぴりぴりした。睨まれたんだろうか。自己紹介の間中あさっての方向を向いていたし。私は振り返って佐藤の様子を伺った。それに気付いた佐藤は私に満面の笑みを浮かべてきた。
一限目の間、私はずっと彼女の視線を背中に感じ、どうしていいか分からない気持ちになった。教師の声とカリカリとシャーペンを走らせる音だけが響くいつもの教室の中で、私は全く違う空間に放り出されたみたいだった。掌に嫌な汗をかいていた。
休み時間になると佐藤は自分から周りのクラスメイトに声をかけた。よろしくー。私××。俺は□□。そんな言葉が教室を飛び交っていた。
「あなたは何ていうの?」
佐藤はそう話しかけてきたがわたしは本を読んでいるフリをして無視をした。こういう無駄に明るい人間は苦手だった。佐藤はそれ以上話しかけようとはせずにふぅん、と小さく言って別の女の子の元へ行った。
佐藤は直ぐにクラスに溶け込んだ。元々このクラスでは割と仲間意識が強く、同じ学年の他クラスに比べると全員が団結したような雰囲気があった。
だが私にはその空気が重く、誰に話しかけられても無視するか、よくて簡潔な答えを返すだけだったので、いつしかクラスメイトから取っ付きにくい存在として認識されときによっては疎ましがられていた。
今となっては必要に迫られない限り私に話しかけてくるような人はいない。別に構わない。休み時間は常に本を読んで過ごしていた。
しかし佐藤は転校生という立場から私の性格が分かっていないのか、次の日からも一日に最低一言は話しかけてきた。日によっては休み時間毎に話しかけてくるときもあった。
私はその度に無視をしたが、佐藤は飄々とした表情をするだけだった。それは私をイラつかせた。
それに佐藤からは私の嫌いな甘いニオイがした。放課になるとよくお菓子を食べていたからだ。クッキィ、ドーナツ、ビスケット。。。私の食べられないものばかり。
甘いニオイが漂ってくると私はその場から逃げたくなる。頭がくらくらして気持ち悪い。全身が蟻で覆い尽くされた自分が頭の中を埋め尽くす。こんなのただの妄想だ。私は必死で無表情を取り繕う。
佐藤の食べているものは市販されているものもあったが、手作りらしいものも多かった。佐藤がそれを勧めると周りの女の子達は高い声で礼を言って、幸せそうな顔をしてお菓子を食べていた。
そんなもので幸せになれるなんて安い女。私は彼女達を心の中で蔑むことで自分を保っていた。昔の私なら喜んでその輪に入っていったかもしれないが、今の私からしたら脅威な光景でしかなかった。
私は徹底的に佐藤を無視しようと決めていた。その存在を気にしていたら、私がぎりぎりのところで支えている何かが崩れてしまいそうな気がした。それが何かなんて知らないけれど。
しかし私の中の何かも分からない何かは思い通りにはなってくれなかった。
佐藤が転校してきて二週間ほど経ったある日、彼女は窓際の一角でいつものようにお菓子を囲んで女の子達と話していた。秋だというのに太陽が不必要なぐらい照りつけていて、教室の中は少し暑いぐらいだった。
一人の女の子が声を潜めて佐藤に話しかけた。
「ねぇ、もぅあのコに関わるのやめたほうがいいよ。」
声を潜めたって所詮同じ教室内でのこと、聞こえるときは聞こえるものだ。それに私のことだ。そんなことが分からないほど馬鹿じゃない。
声の主は私に聞こえてることなんて気付いていないようで、その後もつらつらと私の悪口を並べる。便乗するように周りの女の子達も汚い言葉を吐く。
彼女達がクッキィを食べる音が耳障りだった。悪口なんか気にならなかった。というよりも自分でも認識していることを言われているだけだったので腹のたてようがなかっただけだが。全て言われて当然のことばかりだ。ただ佐藤手作りのクッキィが甘いニオイを放ちながらパキパキと割れる音だけが、真っ黒な私の頭の中に響いていた。
私は読んでいる本の内容に意識を向けようと努力した。だけどパキパキという音は耳を塞いでも頭の奥底にまで届いた。
それにしても他の女の子達の声は聞こえてくるのに、佐藤の声はいつまでたっても聞こえてこなかった。私は怪訝に思い佐藤の方へと目を向けた。
佐藤は笑っていた。
可笑しそうにじゃない。悪口を言う女の子達みたいに生き生きした笑い方じゃない。
自分の周りで悪口を言う女の子達を頬杖をついて、愛おしそうに見つめていた。
愛おしそうに?ううん、それだけじゃ適切じゃない。愛おしそうに、嘲るように、羨むように、蔑むように、愛でるように。
何とも表現しがたい表情で佐藤は平然とこの教室に居た。どう見たってそれは異質な物体でしかなかった。佐藤の纏っている空気は教室という現実世界とは不釣合いなものだった。
私は佐藤の姿を見て肌が粟立った。
佐藤はあんなにも人間離れしているのにどうしてこんなにも皆の中に溶け込んでいるのだろう。これじゃあ私の方が異物みたいだ。
確かに私はこのクラスにとって邪魔な存在だろう。でもそんなことじゃない。佐藤はもっとこう物質的に、体の構成とか脳の大きさとか、そういう根本的なものが違う気がする。少なくとも私は人間だ。佐藤は違う。人間にあんな表情できるワケがない。
でも誰も佐藤がおかしいなんて気付いている様子はない。平然と会話をしている。
おかしいのはやっぱり私のほうなんだろうか。妄想癖なんかないはずなのに。そう思って必死でこの考えを捨て去ろうとした。しかし捨てようと意識すればするほど、佐藤に対する違和感は大きくなっていった。
私は日に日に追いつめられていった。授業中、黒板を見ているはずの佐藤の視線が私の背中を突き刺しているような気がした。手が震えてシャーペンを動かすことができず、ノートはいつだって真っ白だった。放課になっても佐藤が席を立つまで、私はその場から動くことができなかった。
このままじゃいけない。何とかこの状態から抜け出さなくちゃ。
私は考えた。
考えて考えて、私の貧相な発想力で導きだされた答えは一つしかなかった。
それは佐藤の存在を抹消すること。
勿論佐藤を殺すとかそんな物騒なことを考えているワケじゃない。私だってこんなことで犯罪者になんかなりたくない。私が佐藤と関わるのはこの学校においてだけ。だったら佐藤がこの学校に来なくなればいい。
だから私は地味ではあるが「いじめ」をすることにした。
放課後、私は一旦家に帰り鞄から余計な荷物を出して、冷蔵庫に入っていた一リットルの牛乳を入れた。秋の風が吹く通学路を小走りで駆け抜け、再び学校に向かった。昼間はまだあんなに暑いのに夕方の風はかなり冷たかった。
五時をまわった校舎は全く人気がなくてがらんとしていた。いつも腐るほど人間がいる場所とは到底思えない。運動場の方から野球部の掛け声が聞こえてくる。その声が反響して廊下に響きわたって消え、また反響しては消えていく。彼等は皆、必死で声を張り上げている。どうせ弱いんだからそんなに練習したって何の意味もないのに。
外を見るともう薄暗くなっていることに気付いた。夏場はこの時間はまだ明るかったのに。ひんやりとした空気が辺りを包みこみ、私は何だかいたたまれないような気持ちになった。
なるべく足音をたてないように、かつ自然に見えるように、私はゆったりとした足取りで教室まで歩いた。教室に誰も居ないことを確認して廊下に面した窓と扉を全部閉める。
佐藤は多くの教科書を学校に置いたままにしている。それは前に佐藤自身がクラスメイトに「持って帰ってもどうせ勉強しないし。」とか言っていたことを聞いていたから知っていた。
私は佐藤の机から教科書やノートを取り出し、持ってきた牛乳でぐちゃぐちゃに濡らした。一通りその作業が終わると教科書類を机に戻し、さらに余った牛乳を机の中でぶちまけた。
事が終わると私は速やかに家へ帰った。部活もやっていない私が無駄に校舎をうろついていたら怪しいことこの上ない。しかしもっと罪悪感に苛まれるものだと思っていたが、意外と私の心は平静だった。
私は基本的に臆病な人間だ。悪いことをしたくたって、それがバレたときのことを考えてしまい肩を抱いて震えているような人間なのだ。自分の保身の為なら友達だって売るだろう。といっても友人なんてもともといないんだけど。自分が助かる為だったら他人に罪をなすりつけることぐらい簡単にやるに決まっている。
臆病ゆえに優等生を演じてきた。親や教師の言うことには逆らわず、成績も学年で十位以下に落ちたことはない。もし何かあったときに絶対にこの子は犯人じゃないと思われるように。
だから私はいじめをすると決めたときも、本当は怖くて仕方なかった。バレたら全てが終わってしまう。そう思っていた。
だけどどうだろう。今の私は怖くもないし達成感もない。何も感じてはいない。ただ布団の中はあったかいなぁとかどうでもいいことを考えながら眠りに落ちた。
次の日、私は何事もなかったように学校に行った。さすがに今日は緊張するかなと思っていたのだがそれもなかった。佐藤もいつも通りホームルームぎりぎりに学校に来た。
佐藤がクラスメイトと挨拶をしている声が聞こえてくる。私は一目だけその姿を見ると数学の参考書に目を落とした。佐藤の姿を見れば逃げだしたくなるかも、その考えもやっぱり裏切られた。こんなに平然としていられる自分が逆に怖いぐらいだった。
佐藤が席に付く。しかしなかなか机に手を入れる様子がない。私は一度だけ唾を飲み込んだ。机の中には牛乳でびしゃびしゃの教科書達がある。驚いた声の一つぐらいあげるだろう。どう思うだろう。自分に悪意を持っている人間がいることに。
やがてチャイムが鳴り、ホームルーム、そして一限が始まった。
皆ばたばたと教科書やノートを机の上に出していく。それでも佐藤は机の中に手を入れない。教科書を出す気などさらさらないようだ。後ろを窺うと佐藤は椅子の背もたれに体を預けてシャーペンをくるくる回していた。
私はそんな佐藤を見て焦りを感じだした。一体いつになったら牛乳まみれの教科書に気付くのだろう。これでは佐藤がいじめに負けて学校に来なくなる以前の問題だ。そうなったら私はどうやってここに存在していればいいんだろう。
先生が配ったプリントを私が手渡すと佐藤は「せんきゅー」と言ってウィンクした。私の思いを知るワケもなく佐藤は机に落書きをしていた。少しボケ気味の現国の教師はそんな佐藤の上真面目な態度に気付きもせずに授業を終えた。
私以外にも佐藤が教科書を出していなかったことに気付いていた生徒はいたらしい。休み時間になると私の隣の席に座る男子が佐藤に訊いていた。
「何で教科書出してなかったの?忘れたの?」
「いやー、今日は勉強の気分じゃないワケよ。今日中にこの机に大作を完成させてやるから見てらっさい。」
そう言って佐藤は机をどんっと叩いた。
気付いていて無視をしているのだろうか。でも佐藤が机の中を見た様子はない。もしかしたら私が背を向けている間に見たのかもしれないが、それならそれで何かしらのリアクションがあったっていいはずだ。
その後も佐藤が机の中に手を入れることはなかった。教師に教科書を出せと言われても、忘れたとか気分じゃないとか答えるだけだった。無理矢理出させようとした教師もいたが佐藤は頑なに拒み、最後には皆諦めるしかなかった。そうして佐藤は落書きをし続けた。
帰りのホームルームが終わり、生徒は次々と教室を出て行く。佐藤は私は機械的に教科書を鞄の中にしまっていた。
後ろの席では佐藤が書きあがった絵をクラスメイトに見せていた。私も気付かれないように覗いてみる。
そこには佐藤の席から見たこの教室の風景が描かれていた。絵のことはよく分からないけど正直に言ってうまいと思う。ただその絵には違和感が拭いきれなかった。
答えはすぐに出た。私の姿がないのだ。姿だけではない。その絵には私の机すら描かれていなかった。
皆が一様に机に向かい授業を受ける風景。そこにぽっかりと開いた穴。佐藤の視点から目の前に座る私が見えなかったはずがない。どう考えたって意図的に描かなかったとしか思えない。
私が教科書を牛乳塗れにしたことに気付いているんだろうか。それに対する無言の抗議?私は昨日の冷静さとはうってかわって動揺していた。席を立つことができず、本を読むフリをして、手の震えを抑えていた。
他のクラスメイトは部活に行ったり帰宅したりでいなくなってしまい、教室には私と佐藤だけが残された。佐藤は机の上に座って外を眺めていて、なかなか帰る素振りを見せなかった。
私は二人きりの教室の空気に耐えられそうもなく、意を決して席を立った。そそくさと本を鞄の中にしまい、教室の出口へ向かう。
「ばいばぁい。」
唐突に言われ、思わず後ろを振り返る。今までぼーっと外を眺めていた佐藤が私のほうを見てにっこり微笑んでいた。視線が重なると佐藤は目を細めて上思議な表情をした。愛おしそうな、嘲るような、羨むような、蔑むような、愛でるような――
私はその視線に晒されていることに耐えられなくて逃げるように教室を後にした。最初は早足。気付かないうちに私の足はどんどん加速していく。誰もいない廊下を走る。ばたばたと大きく響く私の足音だけが聞こえる。
図書館に駆け込み、私はやっと立ち止まった。図書館の司書教諭が物凄い勢いで走ってきた私のことを驚いた目で見つめている。私は肩で息をしながら顔を見られないように本棚に隠れた席に腰を落ち着ける。
何なんだ。何だって言うんだ。
どう考えたって佐藤は何か気付いているとしか思えない。でもどうして何も言わないの?
それとも私の思い違いなんだろうか。机の中に気付いて、でも余りのことに反応することもできなかったとか?
ううん、そんなことあるはずがない、と思う。
だけど、だけど何にしたって私はここで引くワケにはいかないんだ。私の生活を、取るに足りないような生き方だけどその私の日常を守るためには。
そのまま図書館で五時になるまで読書をした。その間中あの佐藤の笑みが頭の中をぐるぐる回っていた。好意的にも悪意的にも見える笑み。本の内容なんてちっとも頭に入っていかなかった。
昨日と同じ時刻に私は教室へ行った。佐藤ももう帰ったようで誰もいなかった。開いた窓から吹き込む風でカーテンがゆらゆらと揺れている。佐藤は窓を閉めて帰らなかったらしい。私が教室から出るときは窓は開いていなかった気がするからそれから開けたんだろう。
私は周りを気にしながら佐藤の机に近付き、恐る恐る中を覗き込む。
そこには教科書やらノートやらが乱雑に入れられていた。開いたまま入れられているものもあり、本当に滅茶苦茶だ。シャーペンなども筆箱などは無く、ばらばらに散らばっていた。女の子の机の中とは思えない。
確かに滅茶苦茶。でもそれらが濡れた形跡は何処にもなかった。
紙は一度濡れれば乾いたってふにゃふにゃになる。でもこの教科書類はきちんと真っ直ぐな紙で作られている。
もしかして私が昨日やったことは全部夢だったのだろうか。
そんなはずない。あるワケがない。だけどあの牛乳塗れの教科書はどこへ行ってしまったと言うのだろう。
上可解な気持ちを抱えながらも、私は佐藤のロッカーに手を伸ばした。考えたって分からないならどうしようもない。それよりも、私は目的を果たさなくては。
私はロッカーに入っていた佐藤の体操服を鋏でずたずたに切り裂いた。
次の日は五限目が体育だった。この学校には更衣室がないので着替えは教室で行なわなければならない。体育は二クラス合同で行なうので男子は奇数クラス、女子は偶数クラスで着替えをするのだ。私たちは六組なので教室移動をする必要はなかった。
何人かの女の子が男子を追い出し、皆わいわい騒ぎながら着替えをしている。私は誰よりも早く着替えを済ませ、肩まで伸びた髪を後ろでひとつに括りながら佐藤の様子を窺っていた。
佐藤は友人達と喋っているばかりでなかなか着替えようとしない。私はだんだん苛々してきた。早く、早く、無残な体操服を見て悲鳴を上げて。あなたに悪意を持つ人間がいることに絶望して。
「早くしないと授業に遅れるよ。」誰かのその言葉で佐藤はようやくロッカーの扉を開けた。そこから体操服を取り出し普通に着替えをする。何の変わったことも無く普通に。
体操服に破れているところなどどこにもなかった。
私は目を瞬かせるしかなかった。暫くその場に立ち尽くしていた。
佐藤はそんな私の横をするりと通り抜け、何人かの女の子と連れ立って運動場へ向かっていった。私の頭上でチャイムが鳴る。授業に遅れる。遅れたら、先生に駄目な生徒のレッテルを貼られてしまう。そんなの許されない。頭ではそう思っているのに私は動き出すことができなかった。
どぉいうこと?いろいろな考えが頭の中に浮かんでは散らばっていく。何一つとして確固としたカタチを持つものはない。
私は思い足を引きずりながら運動場へ行った。運動場では既に何チームかに分かれてサッカーが行なわれていた。佐藤が思い切りシュートするのが視界の端に見えた。
体育の教師が運動場の隅に佇む私の姿を見つけて駆け寄ってくる。
「どうしたの?あなたが遅刻なんて。」
「ちょっと貧血気味で。。。保健室で休んできてもいいですか。」
私は咄嗟に嘘を吐いた。自分を守るためならこんな嘘、なんてことない。
体育教師は心配そうに私の顔を覗き込むと保健室に行く許可を出した。付き添いが必要か訊かれたが私はいらないと答えた。日頃授業をさぼったりなんかする生徒ではないだけに、こういうときはすぐに信じてもらえて便利だった。でもそれだけじゃなく、このとき私の顔は本当に青ざめていたのかもしれない。
私は保健室のベッドに身を横たえどういうことなのか考えた。しかし何も思い浮かばず、無駄に白い枕に顔を埋めた。
授業中の学校は妙な空間だ。休み時間になるとあんなに騒がしいのに今はほとんど気配もなく静まり返っている。皆が皆机に向かい、かりかりと黒板の文字をノートに書き写していく。こんなに沢山の人間が同じことをしている。誰もが口を閉じて教師の声を気配を殺して聞いている。勿論寝ていたり他の事をしていたりする奴も中にはいるが。
保健室にいるとそんな学校の空気が流れ込んでくる。別にノートをとる音が聞こえるワケじゃない。教師の声が聞こえるワケじゃない。それでも特殊な空気は拭い去ることなどできずにここに流れ込んでくる。
心地いいのにざわざわする。このまま微睡んでいたいと思うのに溶け込んではいけないような焦りを感じる。私はもう何も考えられず、その矛盾した感情の中に身を委ねようとした。
そのとき突然保健室の扉が開き、私は現実に引き戻された。
「センセー、サッカーやってたらコケちゃった。バンドエイド頂戴。」
佐藤の声だった。私は一瞬の内に身を固くした。
佐藤の声はよく通る。耳を塞いでも効果はなかった。
養護教諭と少し会話をし、用が済んだようで佐藤は保健室を出ていった。佐藤が何を話していたかなんて聞く余裕はなかった。それでも私は佐藤が嘲け笑っているような気がして仕方なかった。
吐き気がする。保健室には佐藤の甘い残り香が充満していた。
結局私は六限が終わるまで保健室に居座ってしまった。少し眠ったはずなのに体は更にぐったりとしていて帰る気力も湧かず、担任に家まで送ってもらった。担任の車から降りるときしきりに心配されたが、私は「大丈夫です」とだけ言いそそくさと家に入った。外は何だか雑音だらけだった。
家の中は静かだったが生ごみの臭いのせいで決して居心地のいいものではなかった。あの母親はまた忙しいのを理由にして生ごみの処理すらしていないらしい。
臭いをかいくぐり、私は二階の自分の部屋に駆け込む。無音無臭の空間にようやく少し落ち着きを取り戻し、靴下だけ脱いで制服のままベッドに倒れこむ。やんわりと沈み込む体と共に思考もずぶずぶ沈んでいく。
私は佐藤のことを考えた。やはり佐藤は気付いているんだろうか。気付いていて私を混乱させるためにわざと教科書のことも体操服のこともなかったように見せているのだろうか。答えはでない。不意に部屋の中に電子音が鳴り響いた。私は思わず体をびくっと震わせた。
携帯電話だ。私は着メロの設定をしていないので、その音はただのピピピッという味気ないものだ。友達もなくかかってくるのは親からぐらい、その親からというのも年に数えるほどしかないのにわざわざ設定するほうが馬鹿らしい。
私は重い体をずるずると引きずり、鞄から携帯を取り出した。
知らない番号だ。いたずら電話だろうか。知らない番号からの電話なんてそれぐらいしか考えられない。
私は携帯をそのままベッドの上に放り出した。面倒臭い。いたずらの電話にいちいち受け答えする気にもなれない。コール音は暫く続いたが一分ほどして切れた。
また思考を佐藤へと戻す。今すぐあんなことはやめるべきだ。そんなことは分かっている。でも佐藤がいる限り、私に安堵はない。あんな怪物、存在していていいはずがないんだ。
また携帯電話が鳴り出した。画面を見るとさっきと同じ番号だった。私はその電話を切るともう何も考えずに眠りに落ちた。
午後五時。
私はまた佐藤の机の前にいる。
やめるべきだ。そんなの分かってる。やめよう。そう思っている。やめなければ。そう感じている。
そんな私の頭の中とは裏腹に、私は彫刻刀を握り締めていた。抑えられない。どうしても佐藤が存在することに耐えられない。私は一人で?いて?いて溺れていた。
佐藤の机を彫刻刀で切りつける。何本も何本も傷をつける。ときには「死ね」という言葉を彫りこんだ。落書きの人間の描かれた部分は特に念入りに傷付けた。
私は無心だった。机に傷をつけ始めたときからなんの感情もなくなっていた。そこにはただ机に傷をつけているという事実が存在するだけ。佐藤がいなくなればいいという思いも佐藤に対する恐怖も、やめなきゃという焦りも何もない。消えてしまったというよりは、初めから何もなかったみたいに空虚で空っぽだった。
もう傷付ける部分がなくなる程になると、さすがに手も痛くなってきた。でもまだ終わりじゃない。これぐらいのことであの怪物が痛手をうけるはずがないんだ。
佐藤の机の横にかかっている体育館シューズの袋の中に、ネズミの死体を二匹入れた。1匹はシューズの中に押し込んだ。彫刻刀の尖ったやつで腹を切り裂いて内臓をはみださせて。家のネズミ捕りにかかっていたやつだ。淡いグリーンの体育館シューズの袋はネズミの血でどす黒く染まった。
ロッカーの中の体操服や辞書類は生卵塗れにした。殻も一緒に放り込んでおいた。
靴箱に行って佐藤の上履きに赤いペンキをぶちまけた。
焼却炉に行って机の中に入っていたものを全て炉の中に投げ入れ、火をつけた。代わりにまだ燃やされずに残っていたごみの袋を掴み、再び教室に戻ってそのごみを机の中に詰め込んだ。机の中はコンビニ弁当の空き箱やまだ少し中身の残ったいちごオレの紙パックなどでいっぱいになった。
私は一息つくと手を洗い、自分の鞄に用具を詰め込んで学校を出た。外はもう真っ暗だった。
携帯を取り出し時刻を確認するともう六時を回っていた。そろそろ部活が終わり、生徒が帰る頃だ。帰宅部の私が今学校にいることを誰かに見られるのは好ましくない。早く帰らなくては。
そう思って携帯をしまおうとした瞬間、手の中の携帯が鳴り出した。画面を見る。知らない番号だ。。。。違う、これには見覚えがある。そうだ昨日もかかってきた番号だ。
一体なんだというのだろう。間違い電話やいたずら電話なら無視しても構わないのだが、いい加減鳴り続ける携帯にうんざりしていた。私は取ろうかどうか散々悩んだ挙句、通話のボタンを押して携帯を耳にあてた。
「もしもし?」
返答はなかった。やはりいたずら電話だろう。そう判断して私は電話を切ろうとした。
『。。。うふふ。。。。。』
その笑い声は受話器の向こうから唐突に響いた。私は思わず携帯を耳から離し、素早く切った。
何今の?
知らない女の人の声だ。でもどこかで聞いたことあるような気もする。何だか無性に気持ち悪い。螺子がどこか外れた機械のような、人間味などどこにも存在しないかのような声だった。そう、まるで佐藤のようにー
再び携帯が着信を告げる。またあの番号。
私は電源をオフにする。
何?怖い。見られていたのかもしれない。私のやっていたこと全部。全部見ていて先生に言うのかもしれない。皆の前で私があんな汚いことをしたんだと告発するつもりかもしれない。脅されて金を取られて殴られて蹴られて死んでしまうのかもしれない。
怖い怖い怖い――
居場所が欲しかった。でも私がいていい場所なんてどこにもなくて、ただ頭を抱えて蹲ることしかできない。助けてくれるような知り合いも縋りつけるような友人も誰もいなくて孤独と寒さに一人で震えていることしかできない。
だからせめて、目立たぬように、誰の敵にもならないように生きていたかっただけなのに。
死ぬのは怖い。
誰の中にも存在しなくなってしまうのが怖い。
今だって存在してないようなものなくせに。
人に悪意を向けられるのが怖い。
人を蔑む言葉を吐く自分も怖い。
人間が怖い。
他人が存在するという事実が怖い。
若い男にうつつを抜かし家事もまともにしない母も、母の浮気に気付きながらもそれに関心すら見せない父も、生徒の顔色を窺って頭の良し悪しでしか生徒を判断しない教師も、人がいる前だろうが悪口を言えるクラスメイトも、こんなに意味もないのに生きてる自分も、甘いニオイを放つ佐藤も。
何もかも怖かった。
私は全速力でその場を後にした。
家に帰ると珍しく母がいて、ダイニングでカップラーメンを食べていた。帰ってきた私に一度だけ目線を向けるが、すぐに見ていたテレビへと戻す。くだらないテレビ番組。占い師がここを直しなさいだとかこのままじゃ酷い目にあうだとか適当なことをつらつらと並べている。出演者は真剣にその話を聞いている。どうせそんなのデタラメなのに。
「ご飯は?」
返事なんて期待していなかったけど取りあえず訊いてみた。
「ゴメン、今日は作る気しないの。冷蔵庫の中のもの適当に食べておいて。」
今日「は」だって。笑っちゃう。そんなもっともらしい言葉。いつものクセに。いつも作ったためしなんてないクセに。大体よくこんな生ごみだらけの中でモノが食べられるよね。私だったら絶対無理。気持ち悪くて口に入れた瞬間に吐き出しちゃうよ。
私は冷蔵庫を開けた。
きゅうりの漬物。一週間ぐらい前に私が作ったカレーの残り。今日切れの牛乳。キャベツと玉ねぎが半玉ずつ。奥のほうにはいつのものか分からない腐った豚肉。
涙が出た。
ぽたぽたと床に落ちて、私は母に気付かれまいと必死で嗚咽を堪えた。だけどそんな心配も必要ないみたいで、ずるずると音を立ててラーメンを啜る母の目はずっとテレビに向けられていて、私のほうを振り向く素振りもなかった。
翌日、学校に行くと佐藤はもう席についていてクラスメイトと談笑していた。満面の笑みを浮かべて。
佐藤の机は昨日の午後五時以前と変わらない姿でそこにあった。
私のいない教室の風景が机上にあった。
もう何もかもどうでもいい気分だった。今日一日呆然と過ごした。何の授業があったのかなんて全く覚えていない。移動教室があったような気がするが、自分がちゃんと移動したのかどうかも曖昧だった。
授業が終わって帰りのホームルームが終わっても、私は立ち上がる気力が湧かず座ったまま黒板を眺めていた。今日の日直が六限の授業で教師がつらつらと書き並べた文字を消していく。ときどき煙たそうに咳をする。
無駄なことばかり。教師によって汚された黒板。生徒によって綺麗にされる黒板。その繰り返し。繰り返し。明日また教師によって汚される。
日直は黒板を消し終わると、チョークの粉で白く染まった手を洗いに教室を出ていった。一生落ちなければいいのに。なんとなくそう思った。
携帯が鳴った。まだ少しざわめきの残る教室に、目立たなく、だけどかき消されることなく。見るとまたあの番号だった。笑い声が蘇る。でもそんなことすらどうでもよくなるほど心の中は空っぽだった。
私は電話を取った。
『もっしもしぃ。やっほー。』
聞き覚えのある声だった。
その声は電話からは勿論、真後ろからも聞こえてきた。私は後ろを振り返る。
佐藤が携帯を耳にあて、私に向かって手をひらひらさせていた。驚いた、というよりもああやっぱりな、という感情のほうが強かった。
『ねぇ、今から私の家に来ない?暇でしょ。来るよね。』
その言葉に有無を言わせないものがあったワケじゃない。断ろうと思えば断れた。逃げようと思えば逃げられた。でも私はそうしなかった。私は頷いていた。
佐藤は満足そうな表情をすると立ち上がり、私の筆記用具や教科書を勝手に鞄に詰め込み、自分の鞄と私の鞄を片手に持ってもう片方の手で私の手を引いた。私は素直にその手に引かれるままになっていた。
佐藤は駅に着くと切符を買い、私に手渡した。私の背中を押して改札を通させると自分は定期で改札を通った。
電車に乗っている間、私達は何も喋らなかった。佐藤はずっとウォークマンで何かを聴いていた。私の知らない曲が微かにイヤホンから漏れ出していた。私はどうしていいか分からずにただじっと座っているしかなかった。窓の外を見ると見知らぬ景色が通り過ぎていく。家、田んぼ、家、家、畑、家、墓、家、家、家。一体どこまで行くんだろう。
三十分ほど経ち、一度そこそこ大きな駅で乗り換えてまた十五分ぐらい電車に乗った。やっと降りた駅は、地名を耳にしたことはあるけど来る理由もないので土を踏んだことはない場所だった。
佐藤は住宅地の入り組んだ道をすたすたと足早に進んでいく。少し気を抜くとすぐ見失ってしまいそうで、私は付いていくのに必死だった。コンクリィトの壁の連続が眩暈を引き起こす。
「ここだよ。」
佐藤が急に立ち止まる。私は佐藤の背後に佇むモノを見上げる。
そこはごくごく普通の二階建ての住宅だった。私は何だか拍子抜けした。一体何を想像していたんだろう。佐藤は人間じゃないから人間と同じような家に住んでるはずがないとでも?馬鹿馬鹿しい。
佐藤は自分の鞄から鍵を取り出し、玄関の扉を開けると私にはいるように言った。そう言えば私の鞄、まだ佐藤が持ったままだった。
扉をくぐると甘いニオイが鼻を突いた。家の中は甘いニオイで満ちていた。いつも佐藤から漂ってくるニオイ。好きな人でも気持ち悪くなりそうなほど、たゆたゆと甘い空気が流れている。ビスケットで出来た壁に仕上げに生クリィムでも使ってあるんじゃないかってほど。
私はリビングらしき部屋に通され、大きなソファーに座らされた。ソファーは使い込まれているせいか私の体重を充分に支えきれず、不必要なほど沈み込んだ。佐藤はお茶をいれてくると言って姿を消した。
一人にされて考える。佐藤は私に何の用があるんだろう。勿論あの「いじめ」もどきのことだろう。それは分かっている。責められるんだろうか。怒られるんだろうか。脅されるんだろうか。いろいろな想像ばかりが頭をよぎる。嫌な想像ばかり。
でも不思議と気分は落ち着いていた。それどころか安堵していた。やっと抜け出せる。そんな気分があった。
もう生きているのは面倒。ここで死ぬならそれもいいかも。やっと抜け出せる。やっと終われる。そう思ったらもう何でもよかった。
「おまたせー。」
佐藤がトレーに紅茶と生クリィムがたっぷり添えられたシフォンケェキをのせて戻ってきた。私の前にそれらを置き、テーブルの反対側にも同じように置いた。今までも充分甘い空気に包まれていたけど、さらに柔らかに漂ってくるそのニオイに私は吐き気を堪えた。
「遠慮なく食べてね。私の手作りなの。」
何のつもりだろう。仕返し?私は相変わらず吐き気を堪えている。
「私甘いものはちょっと。。。」
ようやくそれだけ口にした。
「えー残念。自信作なんだけどナ。」
佐藤はシフォンケェキを口に運びながら言う。頬に付いた生クリィムを薬指で拭って舐める。口から覗いた赤い舌。私は吐き気を堪えている。
本当に何を考えているんだろう。このケェキと紅茶に毒でも入っているんだろうか。私は佐藤の方を見ることができず、膝の上で拳を固め、じっと舌を向いていた。
「やだなぁ、そんなに固くならないでよ。私が変な奴だから困ってるのかにゃー。」
笑い、それから佐藤は一人で喋り続けた。○○ちゃんのお父さんこの前宝くじ当てたんだって。めっちゃ自慢してるの。何か偉いことしたわけでもないのに。△△君の話聞いた?ダンクシュートキめようとして体育館のバスケットゴールぽっきり折っちゃったんだんだって。そりゃあんな体重でぶらさがればねー。☆☆先生の奥さんすげぃ綺麗らしいよ。信じられる?絶対騙されたに決まってるよ。
佐藤は喋り続けた。どうでもいいことを延々と。まるで普通の友達同士であるかのように。下らないことを延々と。私が返事をしないことなんてお構いなしだ。佐藤は喋り続ける。私はずっと押し黙っている。
「もーノリ悪いなぁ。どーしたの?調子でも悪い?私の話聞いてる?」
そんなことを言って顔を覗き込んでくる。
「何を。。。考えているの?気付いているんでしょう、私がやったこと。」
声を絞り出す。私は吐き気を堪えている。
佐藤はにっこり笑ってシフォンケェキを頬ばる。
「君はね、私と似てると思うんだ。初めて会ったときからずっとそう思ってた。表面的には違うかもだけど根本にあるものはすっごく似てる。」
私は息を呑んだ。
似てる?私が?誰に?
「似てなんかない。。。私はアナタとは違う。」
「そんなことないよ。まぁこれでも食べて。」
佐藤はシフォンケェキを勧めてくる。私は何故か逆らえず、震える手でフォークを手に取った。「甘いものを食べる」という行為は恐怖の対象でしかない。
小さな欠片をフォークで突き刺し、恐る恐る口元へと運ぶ。
口に入る。甘いものが口に入る。そう考えるだけで、私の頭の中は蟻だらけになる。脳みそが小さな蟻の大群でびっしりと埋めつくされる。
今にも口に入る、そのとき突然リビングの扉が開いた。私は驚いてシフォンケェキののった皿とフォークを床に落とした。シフォンケェキはべったりと床にこびりつき、見る影もない。くわんくわんとフォークは金属音をたてている。なかなか止まらない。
扉のほうに目を向ける。そこには髪の長い女の人が立っていた。年は三十代後半ぐらいだろうか。前髪隠れていてよく分からない。女の人は口を半開きにして、虚ろな目で床に落ちたシフォンケェキを見ている。
「甘い。。。ニオイ。。。」
女の人は覚束ない足取りで私の目の前に歩いてきて、倒れこむかのように蹲った。そして床に付いたクリィムをぴちゃぴちゃと音を立てて舐め始める。私はただただ見つめることしかできなかった。
「ママ、そんなの舐めてないで。これをあげるから。」
言って佐藤は食べかけのシフォンケェキの皿を差し出した。ママと呼ばれた女の人はのろのろとその皿を受け取ると部屋の隅に蹲って、その皿の生クリィムを舐め始めた。
目を見開いている私に佐藤はにっこり笑いかけてくる。
「ごめんね、驚かせたでしょ。コレ私の母親なの。五年前に父親が出て行ってからずっとあんな感じ。あの男がよく買ってきたケェキでも思い出すのか甘いものしか食べないんだよね。」
佐藤はまるで他人事のようにさらりと言った。その間佐藤の目は一度も母親のほうを向かなかった。甘いもの以外は吐いちゃうんだよねぇ、と明るく付け加える。
佐藤の母親は皿を綺麗に舐めあげて、それでもまだ足りないのか何も残っていない皿を無心に舐め続けている。
甘いものを食べることができない私。甘いものしか食べられない佐藤の母親。正反対だ。正反対のはずだ。なのになんでこんなに胸が痛くなるんだろう。なんで苦しくて息ができないんだろう。私は吐き気を堪えている。
「そんなに甘いものが好きなら、いっそ砂糖にでもなっちゃえばいいのに。そうしたら蟻の巣の中にぶちこんでやる。」
小さな声で、注意していなかったら聞こえないぐらいの小さな声で唐突に佐藤は言った。その声に鳥肌がたった。私は佐藤の母親に向けていた視線をそろそろと佐藤のほうに戻した。
佐藤は下を向いて唇を噛みしめていた。私は佐藤の笑っていない顔を初めて見た。
私は、吐き気を、堪えて、いる。
佐藤の家を出ると辺りはもう真っ暗だった。空は雲ひとつなく無数の星が瞬いている。さすがに母ももう帰っているだろう。でもきっと私の心配なんかしてないだろうな。もしかしたら私が帰っていないことにすら気付いてないかもしれない。
私は電車に乗る前に駅前にあったコンビニでチロルチョコをひとつ買った。コンビニと言っても小さな個人商店みたいな寂れた店だった。店員は面倒臭そうに会計をした。
駅で適当に自販機にお金を入れ、適当にボタンを押して切符を買い、適当に電車に乗る。どっちから来たのかなんてどうでもいい。帰宅ラッシュも過ぎ、酔っ払いが家路につくにはまだ少し早い時間であるからか乗客はまばらだった。
私は制服のポケットからさっき買ったチロルチョコを取り出し、包みを開いた。掌でころころと転がしてみる。何だか車両中にチョコレェトのニオイが充満したような気がした。
チロルチョコを口の中に放り込む。舌の上にチョコレェトの甘い味が広がっていく。
吐き気がした。
チロルチョコの包みを汗で濡れた手で握り締める。
吐いた。
緑色の制服を着た車掌がすぐに駆け寄ってきて、大丈夫ですか、と私の背中を擦った。周りの乗客は迷惑そうな目で私を見たり車両を移っていったりした。
私は大丈夫です大丈夫ですと繰り返し、電車が止まるとどこの駅かも確かめずに電車を降りた。扉が閉まる瞬間、車掌の舌打ちが聞こえた。
私が降りた駅は無人駅で電車が行ってしまうとほとんど明かりはなかった。消えそうなオレンジ色の照明が申し訳なさそうに点いているだけだった。星はやっぱり無駄にきらきらと輝いている。
私は大声で叫んだ。後から後から湧き出てくる涙を隠すかのように下を向いて叫んだ。どうせ誰も見てやしないのに。
叫んで叫んで、もう喉がおかしくなって叫べなくなるほど叫んで、駅のホームに蹲る。声は出なくなっても涙が止まることはなかった。
どれぐらいそうしていただろう。さすがにもう帰らなきゃと思い、顔を上げた。相変わらず周りには人っ子一人いなかった。冷たい風が火照った顔を冷やしていく。馬鹿みたい。何に対してそう思ったのかは分からないけれど、とにかくそう思った。
ふいに足がくすぐったいのに気付く。
右足の膝の辺りに視線を落とすと、蟻が一匹、私の足にしがみついていた。